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これが吉備の桃太郎のオハナシ:裏歴史バージョン [岡山]

岡山旅行の続きです。此処は吉備津神社。
長い廻廊を歩いている最中。

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この先右に折れる廻廊があります。御竈殿へ通じる廻廊だよ。
此処には吉備津彦(しつこく書くけどホントの名前は彦五十狭芹彦命)に負けて殺された温羅の首が釜の下に埋まっていると云われてます。

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今は、この釜の鳴る音で吉凶を占う神事がおこなわれているのですよ。

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此処が御竈殿なのかー。もっと立派な場所を想像していたけど違うんだね。
やっぱり負けた方だから、こんな端っこに追いやられているのね。

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神事の由来はこんな感じ。

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んじゃ、ここから先はリュカの解説入り桃太郎伝説を載せますね。
桃太郎のお話は日本各地にあるけど、此処では岡山の、しかも絵本に一般的に描かれる桃太郎ではなく、日本書紀や郷土資料、歴史家の考察などを合体させた【吉備の桃太郎伝説 〜 温羅 vs 彦五十狭芹彦命】を書きます。みなさんの記憶にある普通の桃太郎とは全く違うよ!
リュカ補足は青字にします。

チョーーー長い文章になるけど、興味のある人はお付き合いくださいマセ。時間のあるときにでも読んで貰えれば。なお、これはあくまでいろんな説あるなかの 1 つですよ。

では、はじまりはじまりー。

***

むかしむかし。
垂仁天皇の時代。(だいたい3世紀)百済から王子が戦いに破れて吉備に渡来してきました。彼と彼の連れてきた技術者集団(7割が鍛錬師と言われる)を吉備の人たちは受け入れました。王子はそのお礼に最新の製鉄技術や造船、製塩技術を人々に伝授しました。王子の名前は温羅(うら)。

王子は新山(にいやま)に山城の造営に取りかかります。朝鮮式の古代山城に倣って標高400メートルの山頂に城を築きました。(旅行翌日に訪れた鬼ノ城。サービスで写真を載せちゃおう)

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この地域は現在は総社と呼ばれてますが、古名は「阿曾(あそ)」と言います。九州の「阿蘇」と同じで「明るいところ」という意味です。
九州の阿蘇は噴火で赤々としているのでその名前が生まれましたが、岡山の「阿曾」は野外で製鉄をおこなうため、昼夜赤々と天を焦がしているので、この地名になったと思われます。

温羅は阿曾の首長になりました。

当時の吉備は南山裾まで吉備穴海が入り込み、瀬戸内海航路の中継地点として都に上がる船が航行していました。温羅が来たことで吉備の国はますます繁栄し、温羅は「吉備津彦命」(吉備の港の立派な男の神)と呼ばれるようになりました。

さてさて、そんな吉備の鉄に目を付けたのが大和国です。
じつは吉備国には、大井という一族も居ました。(もちろん他にもいろいろな一族は居る)もしかしたら大井族は阿曾(=温羅)族の活躍を面白く思ってなかったのかもしれません。(そして、もしかしたらそれを利用して大和国は巧く付け入ったのかもしれないね。大井族の娘を彦五十狭芹彦命は妻にしてます)

大和国の大義名分は以下の通り!

「新山(にいやま)に居を構えた温羅は船を略奪して貢ぎ物を奪い、婦女子を略奪し、地元の人々を怖がらせているので退治をしよう!」

そして都から派遣されたのが「四道(しどう)将軍」の一人、彦五十狭芹彦命です。
( ※ 四道将軍 = 大和王権が全国を支配するために任命した、4人の占領軍総司令官のこと)

彦五十狭芹彦命(以下、面倒なのでイサセリ彦と書きます)は吉備の中山に陣を敷き、そして温羅との戦いが始まりました。

イサセリ彦が放った矢は、温羅が放った矢と空中でかちあい、海に落ちてしまいます。(その場所は矢喰宮として残っている)
そこでイサセリ彦は同時に2本の矢を放ちました。1本は温羅の放った矢とかちあいましたが、もう1本の矢が温羅の左目を射貫きました。(製鉄では片目を痛めやすいという象徴と思われる)

温羅はたまらず雉に姿を変えて逃げました。するとイサセリ彦は鷹に変身して追いかけます。
温羅は今度は鯉に化けて川に潜りましたが、イサセリ彦は鵜になって鯉を食い上げました。(鯉喰神社がある)とうとう温羅は降参して、自ら呼ばれていた「吉備津彦命」という名前をイサセリ彦に献上しました。(つまりは、吉備の港の立派な男の神という称号の剥奪だね)

イサセリ彦は以後、吉備津彦命と名乗るようになったのです。

温羅の首は刎ねられ、地中に埋められました。
ところが、この首が大声を上げて唸り続けます。イサセリ彦はお供の犬に首を食べさせガイコツにしましたが、それでも唸り続けます。大きな竈の下に埋めても 13 年も唸り続けたそうです。

困り果てていたある夜、イサセリ彦(もう吉備津彦です)の夢に温羅が現れてこう言いました。

「私の妻、阿曽媛に御竈殿の火を炊かせよ。
釜は幸福が訪れるなら豊かに鳴りひびき、
わざわいが訪れるなら、荒々しく鳴るだろう。
ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん」

そのお告げ通りにすると唸り声はおさまり、平和が訪れました。
以後は釜が鳴り響く神事として扱われるようになったそうです。

(唸り続けたのは温羅族の残党が戦っているということだと思われます。イサセリ彦の部下だった犬飼健たちとの戦いが 13 年続いたということ。この戦を終結させるため、温羅と関わりの深かった阿曾の女性を吉備津神社で面倒を見るという契約が結ばれ、今でもこの神事に仕えている女性を阿曾女と言って、代々この阿曾の郷の娘がご奉仕してるとのこと)

***

以上が、桃太郎のお話:裏歴史バージョンです。
まだ、温羅やイサセリ彦が何故化ける必要があったのか分からないし、夢のお告げに出てきた「四民」がどの民を指すのかが謎なんだけどね。

こうして吉備は大和の手に落ち、鉄を奪われ力を奪われ、土地を分割されて歴史の表舞台からは姿を消していくのでした。鬼ノ城のことも記紀には一切記されず、長く沈黙していたのよね。
鬼ノ城のことなんかが初めて記録されるのは室町時代だそうです。

今では、発掘調査も進んで吉備独特の土器なんかが出土して、大和に影響を与えたのは吉備だったと歴史が変わりました。
鬼ノ城も発掘や復元作業は続けられてます。

御竈殿をあとにして、さらに神社境内の端っこまできました。

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古い古い狛犬さんが居ましたよ。
多分これは石の狛犬かな。

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一番端っこに、本宮社がありました。
地図を見ると「旧社務所」があったので、遥か昔はこっちも賑わっていたのかもしれないね。

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本宮社に祀られている面々を見ると、平安時代末期の今様に歌われた名前があります。

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「一品聖霊 (いっぽんしょうりょう) 吉備津宮、新宮、本宮、内の宮、隼人崎、北や南の神客人 (かみまろうど) 、艮御崎(うしとらみさき)は恐ろしや」

後白河法皇がまとめた『梁塵秘抄』に出てきた怨霊の名前がずらりです。
「北や南の神客人」は北随神門と南随神門に居るけど、他はここに居るのね。諸々調べると徐々にここに合祀されていったみたい。静かに手を合わせてきました。

境内の柵の向こうに吉備の中山への道が続いてます。

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この先をずっと行くと吉備津神社公式サイトに書かれている「御陵」に辿り着くんだろうな。御陵は神社に直接確認したら、吉備津彦命の墓と言われる中山茶臼山古墳だという回答を貰いました。

電池が切れかかっているスマホ。そんな状態でこの山の中を入っていくのは危険だよね。
行くのは無理だなあ。。。さて、このあとどうしたもんだろう。

廻廊を戻り、境内を出るまでいろいろ考えました。

つづく。


***
今回紹介したお話は、あくまで、桃太郎伝説に関するものってことで書きました。
本当は温羅がやってきたと言われる時代と、鬼ノ城が造営された時代には隔たりがあります。(鬼ノ城の記事で書くつもり)なので温羅2世、温羅3世って感じで温羅一族複数人の物語かもしれません。

イサセリ彦に関しても、記紀で年代を調べると鬼退治をした年齢が127歳になっちゃうそうな。こちらもまた違う人物がいるんだと思われます。