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最終日の丹後半島旅行記スタート [京都]

丹後半島旅行、最終日の朝を迎えました。
Web カメラでチェックすると、2 ニャンは寝てました^^

おはよ

今日は青空が見えて良い天気!

青い空〜〜

7時半から朝食です。旅館の朝ご飯ってしっかり食べられちゃうのよね^^

いただきますー

魚がとっても美味しかったです^^

もぐもぐ

今日は丹後半島の海岸沿いをいろいろ見て回る予定なの。鳴き砂で有名な琴引浜にも足を伸ばしてみたのですが・・・

綺麗

看板に「今日は砂は鳴きません」って書かれていたので浜までおりるのは止めました(笑)
車を走らせていると、ちょっと気になる場所を発見したので降りてみます。「間人水無月神社講中」と看板が出ていて、神事の様子などの写真が載っていました。

気になる

東(あずま)氏の祭神が水無月神社と書かれていたのですが、この東氏がね。。。じつは、東漢直駒の子孫なのです。と言っても、東漢直駒(やまとのアヤノあたいこま)って誰?って感じよねw

じゃじゃーん

丹後半島を旅するにあたって、聖徳太子の謎がいくつかありました。
聖徳太子のお母さん、間人(はしひと)皇后は、蘇我氏 vs 物部氏の乱の時、この地に避難してました。避難するときは、女の人はまったく縁もゆかりもないところよりは、縁のあるところに避難するかなーと思います。ということは、このあたりは、間人皇后に何らかの関係がある土地なのかな?

そんな疑問も、この看板を見ると「領地であった」と書いてるので解決?
ここは間人皇后の血族の領地ってことなのね。

避難してきた際、間人皇后のお供として東漢直駒を含め7人が、一緒にこの地にやってきました。この東漢直駒は、日本書紀では間人皇后の弟である崇峻天皇を、蘇我馬子の命令で暗殺し、そして自分もまた、馬子に殺されてるのです。
正史では死んだことになっている東漢直駒は、この地に来ていて、そして東と名前を変えてその子孫は生きているんだねえ。ちなみに間人皇后がこの地に来たことは、記紀では触れてません。

この近くにある間人皇后と聖徳太子の像。
これは最近建てられたものみたいですよ。太子が小さい姿っていうのがビックリしました。だって間人皇后が此処に避難してるとき、太子は蘇我馬子と一緒に戦ってるんだもん。こんなに小さい子供じゃないよね。平和な頃の母と子の像って感じなのかな?

おっとw

しばし間人皇后のことを考えながら次へ行きます。この海岸沿いは奇岩もいろいろあるみたいなので、いくつか見ていこう!

すすみますー

立岩というのがありました。
ここは鬼伝説があるところ。吉備もそうだけど、産鉄地には鬼の伝説が多いね。やっぱり昔の日本は鉄をどれだけ支配できるかが大事だから、朝廷に協力しない産鉄地の有力者一族は「鬼」と呼ばれて退治されちゃうのよね、きっと(笑)

ざぶーん

日本海の荒波もたっぷり堪能しますよー。

かっこいいー

穏やかな海も良いけど、このくらい波のある海も好きです。

あおあおしてます

このあとは、本当は「京丹後市立 古代の里資料館」に行って、丹後王国について観てきたのですが、今回聖徳太子のことに触れたので、ゆかりがある竹野神社の様子を先に書きますね。

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