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楯築遺跡 [岡山]

タクシーの運転手さんとの会話から、ひょんなことでホントは訪れたかったけど諦めていた楯築(たてつき)遺跡に来ることが出来ました。

吉備の桃太郎伝説では、この楯築遺跡にある巨石を楯にして、大和の吉備津彦(イサセリ彦ねw)は矢を放ったと伝えられてます。ホントかどうかは知らんけどww

楯築遺跡の円丘部は何処だ〜? とウロウロしていると、なんだか金網に覆われた巨大な建物(あとで調べたら給水塔だった)の奥に何やら盛り上がった空間がある。

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おそるおそる行ってみると……あったー!

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楯築という名前の由来になっていると思われる巨石たちです。
円丘部は径約 50m、高さ 5m。墳丘頂部に 5 個の巨石が立っていて、墳丘斜面には円礫帯がめぐっているとのこと。
【 ※ 円礫 = 超簡単に言うと直径 2mm 以上の粒】

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何らかの祭祀を行う場として作られたと考えられてます。そしてこの巨石自体は邪馬台国と同時代に建てられたものでは? とのこと。

この祠があるあたりの地下約 1.5m から埋葬の跡が見つかっているんだそうな。

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木郭木棺墓が見つかっていて、木棺の底には総重量 32kg を越える大量の水銀朱が分厚く敷き詰められていたんだって。
その上には鉄剣が1口と勾玉や管玉,ガラス製小玉などの玉類が副葬されていたとのこと。
水銀朱かぁ〜。防腐の目的はあるだろうけど、それだけじゃない呪術的なものも感じるね。(墳丘墓内ではもう1基、埋葬施設が確認されています)

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円丘部の中央付近には、おびただしい数の円礫が堆積していて、この中には特殊器台などの土器類や旋帯文石(せんたいもんせき)と同じ文様をもつ小形の石などがあったそうな。

埋葬者の遺骨はなくて、歯の欠片が 2 個あっただけ。
埋葬者は何処に行っちゃったのかなあ。

円丘部に置かれた巨石も、おそらく1つ1つに意味があったんだろうね。
私には想像出来ないけど……

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真っ二つに割られた石もある。
こんなふうに石を割ることにも意味があるんだろうと、考察している記事も見つけましたわ。

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この墳丘墓に弥生時代の権力者が眠っていたのかぁ〜。
突出した部分が宅地開発で壊されてしまったのは残念だな。

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検索していて、団地造成事業の裏話(?)的なことが書かれていたサイトも見つけました。リンク先を載せるのは控えるけど、当時は考古学上、重要な遺跡であるという認識が低かったみたいです。残念過ぎる。実際に発掘調査に携わっていた人たちは悔しい思いをしたんじゃないのかなあ。

円丘部に立って、せめて弥生時代に思いを馳せよう。
ぼんやり巨石を眺めていたんだけどね、、、

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でもね、なんだか……ぞくぞくする石もあるんだけど、場所によってはお金持ちの家の庭園風で……

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なんだろう。古代の風景をあまり感じられないところもある。
スピリチュアルなことよりも歴史に興味があるから、あまりこういうことは書きたくないんだけど(パワースポットって言い方も好きじゃない)、心の深いところにちょっと違和感があってね。。。

あまりにも天気が良すぎて巨石に日の光がバンバン当たってるから、余計に庭園の石みたいに感じちゃうのかしら。遺跡を見るなら木々の葉が落ちてる季節に見た方が良いと言ってる人も居ることに少し納得。この生い茂った木々が妙に庭園チックな空気を醸し出してる?(笑)

気になったので家に帰ってからちょいと調べてみたら、発掘調査や公園整備の都合上、巨石の殆どは埋め替えられてるみたい。石によっては、傾いていたものを垂直に立て直したりしているそうな。
なるほど、だから庭園の巨石みたいに見えるのかも^^;

弥生時代の祭祀がおこなわれていたときとは姿が変わっているんだね。
妙に納得しました(笑)
このへんのことを詳しく書いた、発掘調査に携わった人たちが刊行した本が国立国会図書館にあることはリサーチ済みなので、そのうち閲覧しに行ってこようと思ってます^^

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それでもこの墳丘墓からの出土品は、歴史上非常に重要。
棺にあったはずの遺骨は何処にいったのか。歯の欠片が 2 個だけ残っていたのは何故なのか。なんだかいろいろ妄想しちゃうw
長くなるから書かないけどww

もっともっと調べさせてくださいねー! と、祠に声をかけて楯築遺跡をあとにしました。
動画も撮ってきたので載せておきます。(風などの音あり16秒)



ほんっと来ることが出来て良かった。
現地の雰囲気、肌で感じられて良かったですよぉー^^


古代の王に導かれたのかもしれない? [岡山]

写真は記事とは関係ないけど、家の近所の彼岸花をパチリ。
秋ですのぅ。

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さて。岡山旅の続きです。
タクシーに乗って岡山駅に向かうことにした私。運転手さんとの会話は続きます。

「こんなふうに史跡巡りが趣味なの?」
「はい。旅はもっぱら歴史探訪です」
「ボクは歴史に疎いんだけど、このあいだ桃太郎の話をテレビで観てね。面白かったな」
「あ、NHK ですよね。旅行前にタイムリーって思って私も観ました。でも温羅の話が一切出てこなかったので、それは納得がいかなかったな」
「ははは。詳しい人からしたら、物足りない番組だったかな。あの番組に出てきた楯築(たてつき)遺跡は、お客さんを何度か乗せたことがあったから、その名前が出てきて勉強になったよ」
「楯築遺跡! ホントは岡山に来たら絶対行きたいって思ってた場所なんですよ。でも倉敷にあるから今回は諦めたんです」
「ん? 此処からなら 10 分ちょっとで着くよ」
「あれ? だって楯築遺跡って倉敷市ですよね?」
「ああ、この辺は岡山市と総社市と倉敷市の境界でね。楯築遺跡は倉敷市の外れだから此処から近いよ」
「ホントですか? そこに行きたいです!」
「寄ってみるかい?」
「是非お願いします!」

この時点で中山茶臼山古墳に行けなかったことなど吹っ飛びました(笑)
スマホの電池のことも忘れましたw
テンション上がりまくりですっ
なぜなら……

「そうか、楯築遺跡ってそんなにすごいところなのかー」
「すごいんですよ! 2世紀後半くらいの弥生時代なので、古墳じゃなくて墳丘墓なんですけど、これが弥生時代の墳丘墓の中では日本で一番大きいんですよ! そしてこの墳丘墓が前方後円墳のモトになってるって話なんですよ。前方後円墳が吉備で生まれた証拠っても言われてるんです」

興奮しちゃったので、楯築遺跡について熱く話してしまったよ(笑)

そうなのだ。この墳丘墓は弥生時代に既に大きな権力を持った王がこの吉備地方に居たことの証。ここまで大きいものは北九州にも出雲にも大和にも無い。
そして此処で出土した特殊器台と特殊壺。のちに箸墓古墳でも見つかる特殊器台と特殊壺。ということは、この墳丘墓に眠っていた人物こそ、おそらく吉備王国の最初の王。この楯築遺跡は古代吉備国の原点なのよ!

うわー、うわー、スマホの異常はきっと「此処に行け!」っていうことだったのかも〜!
すごーいすごーい! と興奮してた私でした。

ほどなくしてタクシーは入口に到着。
「ボクは此処で待っているから、のんびり楽しんでおいで」と言って送り出してくれました。(念のために運転手さんは自分の携帯番号をメモに書いて私にくれた)

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まさか楯築遺跡に来られるとは思ってなかったので、地図などは全然頭に入ってません。本で読んだ情報が頭に入っているだけで、具体的に何もメモしてこなかったのよね。

看板を発見。もともとはこの赤い色のような形をしている墳丘墓。
全長約 80m で、同時代の墳丘墓の中では最大級。

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自然の丘の頂を整えて造られていて、やや歪んだ円形の円丘部は約 50m なんだって。
突出部は、昭和40年代の住宅団地建設で破壊されちゃったそうな。

この階段の先が円丘部なのかな? と思って、上ってみる。

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でも違った(笑)
この先は古墳の周りを歩く遊歩道っぽくなっていたけど、当然舗装されてなくて、草木に覆われていてまた蚊に襲われそうな雰囲気だったので撤退。

違う道に行ってみると、お、これは収蔵庫!

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某漫画では、此処から龍神石が盗まれたことになってるわw
実際はこの収蔵庫には旋帯文石(せんたいもんせき)が納められています。

建物の横に覗き穴があるらしく、そこから旋帯文石を見ることが出来たようなんだけど、見損ねちゃいました。次回訪れたら絶対に見よう! (やっぱり事前調査不足は否めないねw)

おかやま観光ネットに載っていた写真をお借りしよう。こんな石なんだよ。

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石の表面には全面に特殊な旋帯文が施されていて、正面には人間の顔のような彫り込みがあるんだそうな。こういうのは他に例がないみたい。遺跡の発掘調査で、同じ文様が入った小さな石が出てきて、2世紀末頃のものと分かったんだって。

この文様。古代吉備文化財センターで見た特殊器台にみられるものと類似しているとのこと。この文様が弥生時代の吉備の呪術では重要なものだったんだろうなあ。

今こうやってまじまじと文様を見て、倉敷市のホームページに載っている旋帯文石を見ると、波とうず潮にも見えてきちゃった(笑)
蛇(もしくは龍?)を表してるのかもしれないけど、うず潮に見えるw
関門海峡を渡り、特殊な潮流の瀬戸内海を自在に航行した一族。吉備に拠点を置いて製塩、製鉄を始めた一族……なーんて想像しちゃったww

まだまだ妄想の域だけど、その一族の長こそ元祖・吉備津彦命! なんてね^^

長くなったので次回に続きます。


***
不思議な旋帯文。家に帰ってきてからいろいろ調べてみたら、綿花を糸に紡いだ状態をモチーフにしていると考察してる人のサイトも見つけて非常に面白かったです。鬼城山あたりは綿花栽培もおこなわれていたみたい。
言われてみたら岡山って岡山デニムが有名だし、繊維の町でもあるもんね?

古代吉備文化財センターで見た特殊器台 [岡山]

タクシーで来た岡山県古代吉備文化財センター
タクシーには待っていてもらって、中を見学してきますっ

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入口を入ると、どどーんと鬼ノ城のパネルがありました。
翌日訪れる予定の鬼ノ城。
温羅が造営した古代の山城と言われてます。

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翌日、この鬼ノ城を散策したわけだけど……まじで大変な場所でした。
そして東門のポケGOジムに配置したポケモンは 13 日間帰って来ませんでした。こんなところまで、なかなか誰も散策しないよね。散策なんていうレベルの場所じゃなかったもんな^^;

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たいていは、左上の丸をつけた西門周辺をうろうろするだけなのかも(笑)

1F の展示室では、県内各地で実施した発掘調査の出土品を公開しています。
真っ先に目に飛び込んできたものは、特殊壺と特殊器台!

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岡山に来たら、絶対にこれを見たかったの!!
この特殊器台と特殊壺は、弥生時代後期の終わり頃(約1800年前)の墳丘墓から見つかる土器なの。この特殊器台が、だんだん大きくなっていって、そして文様の少なくなったものがやがて古墳上で使われるようになるんだって。

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この特殊器台が特殊器台形埴輪と呼ばれるようになって、円筒埴輪のルーツになるのだ。埴輪のルーツは吉備に在り。

そして、弥生時代に作られていたこの特殊器台、特殊壺は吉備国独特の形なんだけど、大和の箸墓古墳で見つかったのだよ。これは吉備の祭祀形態が大和に取り入れられていたということ。
箸墓古墳に眠る被葬者は、吉備津彦(彦五十狭芹彦命)のお姉さんと言われる倭迹迹日百襲姫命(モモソヒメ)。
なんか繋がりを感じるでしょう〜(笑)

箸墓古墳が築造される3世紀後半の段階では、吉備と大和の間に同盟関係が結ばれていた可能性がある証拠となってるのだ。初期のヤマト王権は吉備主導の政治・祭祀体制として誕生した可能性が大きくなっているのです。
(そしてやがて吉備を裏切るというわけw)

ちなみにこの特殊壺と特殊器台は出雲でも出土例があって、調査の結果から吉備で作られて運ばれたようです。出雲とも同盟関係があったのかもしれないね。こっちのほうは、吉備が出雲を苛めるようになるんだけど、それはまた別の話なので今回の記事には書きません ^m^ スサノオが絡んでくるw

6世紀後半くらい(まだ古墳時代)の土井遺跡からは、埴輪窯が2基発見されたんだって。こんな感じの埴輪が焼かれて作られていたんだねえ。

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古墳時代後期から飛鳥時代を中心として使われた焼き物の棺、陶棺も展示されていました。

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身の底には円筒形の脚複数が付くのが特徴なんだって。
ほんとだ。脚がたくさんある(笑) こんな形のものを見るのは初めてです。

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遺体を伸展状態で埋葬するために 2m 前後のものが通常なんだけど、火葬骨をおさめるための長さ 1m にも満たないような小型の陶棺も見つかっているんだそうな。ほほ〜。飛鳥時代くらいになると火葬も出てきていたんだっけね。持統天皇は火葬だもんね。

この陶棺は、九州から東北地方にかけて約700点出土してるんだけど、その8割が岡山県なんだそうな。そして岡山県のなかでも美作(みまさか)地方に多いんだって。

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ううう、美作と聞くと……裏歴史好きはウズウズする。
今回は訪れることが出来なかった美作。物部、スサノオ……そっち系の形なんだろうか。妄想しちゃう。次回、美作を訪れることが出来たら、またまた古代史の旅になっちゃうねw

さて、タクシーを待たせてることだし、そろそろ行こう。
パンフレットなどをいろいろ貰って文化財センターをあとにしました。

タクシーに戻って「スマホの電池も無いし、中山茶臼山古墳は諦めます。資料は貰ってきたのでコレで良しとします」と伝えました。

「じゃあ、このあとは吉備津駅でいいのかな」
「はい。お願いします」
「でも吉備津駅だと 1 時間に 1 本しか来ないよ。最終的に何処に行きたいの?」
「岡山駅です」
「それなら同じ JR だけど庭瀬駅のほうがいいよ。あっちなら伯備線もあるから 1時間に 4〜5 本電車が来るんだ。岡山駅までも 2 駅で近いよ」
「そうなんですか。ならそっちでお願いします」
「岡山駅はすぐなんだよ。まあタクシーだと 2〜3,000 円くらいかかっちゃうからね。JR なら数百円だし」
「え? タクシーでそのくらいで岡山駅まで行けるんですか? ならお願いしようかな。待ち合わせ場所なので確実に行っておきたいし」
「え? 岡山駅まで行く?」

土地勘が無いので、距離感がまるで分からないw
庭瀬駅が何処なのかも分からないし、岡山駅がどっちなのかも分からないw
岡山駅まで連れて行ってもらった方が安心かなって思ったのよね。話しやすい運転手さんだったから、2〜3,000 円の距離なら乗っていても苦にならないかなっても思ったのだ。(都内のタクシーの距離感覚だけどw)

そんなわけで、岡山駅までタクシーで行くことに。
でも、このあと会話をしていて違う展開になったのでした。

つづく。


***

カブトムシの New跳馬が旅立ちました。
岡山記事が終わったらきちんと書くけど、なんと 10 月 1 日まで生きてくれましたよー!

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リュカ家に来てから 3 ヶ月 12 日生きてくれました。
10 月まで生きた子は初めて。眠ったまま旅立ったようです。
翌 10 月 2 日の早朝、埋葬してきました。

昨日はブログ活動お休みしてました。
今日は遊びに行きますね!


旅の仲間(タイトルは指輪物語のパクリw) [岡山]

吉備津神社の参拝が終わり、ピンチに立っている私です。
スマホの充電が出来なくなっていて、電池残量は 25% 程度。少し時間が経ったので再度モバイルバッテリーに繋いでみたけどダメでした。

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【記事とは関係ないけど、あおを載せてみるw】

情報はスマホに入っているので、それを見ようと思うとさらに電池を使ってしまう。当初の予定では、此処からテクテクと吉備の中山道を歩こうと思っていたけど、そんなことをして万一迷子になってしまったら大変。GPS が無い状態で山の中は危険なので、それは止めよう。しかも今ですら、駅がどっちのほうなのかも分からない(笑)

なにせ地図の読めない方向音痴。スマホの地図で現在地と自分が向いてる方向が表示されないと歩けない私です。それが使えないとなると The END.

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境内を出たところに茶屋があったので、そこで落ち着いて考えるか(お腹も空いてきたし)……と思ってふと見ると、タクシー乗り場を発見。呼び出しの電話番号も書いてあります。
こりゃ、タクシーを頼るか。

2 つのタクシー会社の番号が書いてあって、最初に電話をした方は誰も出ませんでした。よく見るとそれは観光タクシーって書いてあったので、もう 1 社の普通のタクシー会社に電話。今度はすぐに出てくれました。
吉備津神社のタクシー乗り場まで来て貰うことにします。
行き先を聞かれたので「中山茶臼山古墳経由で吉備津駅までお願いしたいです」と伝えると、ちょっと「??」という反応でした。

電話を切り待つこと20分強かなあ。ホントに来てくれるのか正直不安だったよ。
タクシーが来て名前を言うと「お一人ですか?」って聞かれたのでそうだと答えました。
タクシーに乗り込むと、「お客さんが言っていた中山なんちゃら古墳、知らないんですよ」というじゃないですか。

「えーっと、このへんなんですけど」と、電池の切れかかったスマホで Google Map を立ち上げて見せます。
「このへんに古墳なんてあったかなあ」
「近くに岡山県の古代吉備文化財センターがあります」
「あ、そこなら分かるよ」
「じゃあ、まずそっちに行ってもらえますか」

こんな感じでこのタクシーのおじちゃんとのプチ旅(?)が始まりました。



タクシーが走り始めて、境内から見ていた「吉備の中山みち」に入っていきます。
これが結構な斜面の山道なのよ!

「うわ、こんなにきつい上りなんですね」
「この辺は冬になると、たまに路面が凍って滑ったりして危ないんだよ」
「え! 岡山でもそんなに寒くなるんですか?」
「ここはそこまで酷くないけど、もうちょっと山の方だと雪も降るからね。岡山空港の滑走路はさすがに雪が降っても北国と同じように対応できるようにしてるみたいだけどね」
「私、北海道出身なんで、冬の空港の景色分かりますよー」
「そうなんだ。ボクは新婚旅行で北海道に行ったよ。あのとき北海道の土の色が黒くてビックリしたなあ。もうかなり昔の話だけど」
「北海道は水田じゃなくて畑ですもんね。私は岡山に初めて来たんですけど、水田の景色に感動してたところです」

なーんて感じで話が盛り上がり始めました(笑)
しかし……こんな急勾配な山道を、もしもスマホに異常がなければ歩こうとしていたわけなのだ。

吉備津彦神社から吉備津神社までの道がわりと平坦だったので、こんな感じの道なんだろうって思い込んでいたよ。危なかった。。。もしも徒歩だったら途中でバテて、ペットボトルのお茶は無くなって、周りに何も無くて心細かったに違いないよ^^;
考えてみたら中山茶臼山古墳は、吉備中山の山頂付近にあるわけだし。登山と変わらないんだよね。お気楽気分で歩かないで良かった。。。

タクシーは岡山県古代吉備文化財センターに到着。
此処ももともと訪れる計画だった場所なのだ。

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タクシーは此処で待っていてくれるというので、中を見学してくることにします。

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この山の何処かに、吉備津彦の墓と言われている中山茶臼山古墳はあるんだろうな。古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)の前方後円墳。
雰囲気を味わいたかったけど、この時点で古墳に行くことは既に諦めてました。

中山茶臼山古墳に関するホームページはリーディングリストに入れていたけど、それを見て歩けるのは電池が十分ある状態だったらの話だもんね ^^;

方向音痴の私は、電池の残量を心配する状態で山の中に入っていくほどの度胸は無いです(笑)
この文化財センターを見学したあとは、吉備津駅に行ってもらおう。そしてさっさと岡山駅に行って Wi-Fi が繋がる環境で iPad を使って、岡山駅周辺の見所を検索しようって思っていました。


つづく。

※ 帰宅後きちんと調べてみたら、中山茶臼山古墳は車では行けないみたいでした。

これが吉備の桃太郎のオハナシ:裏歴史バージョン [岡山]

岡山旅行の続きです。此処は吉備津神社。
長い廻廊を歩いている最中。

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この先右に折れる廻廊があります。御竈殿へ通じる廻廊だよ。
此処には吉備津彦(しつこく書くけどホントの名前は彦五十狭芹彦命)に負けて殺された温羅の首が釜の下に埋まっていると云われてます。

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今は、この釜の鳴る音で吉凶を占う神事がおこなわれているのですよ。

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此処が御竈殿なのかー。もっと立派な場所を想像していたけど違うんだね。
やっぱり負けた方だから、こんな端っこに追いやられているのね。

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神事の由来はこんな感じ。

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んじゃ、ここから先はリュカの解説入り桃太郎伝説を載せますね。
桃太郎のお話は日本各地にあるけど、此処では岡山の、しかも絵本に一般的に描かれる桃太郎ではなく、日本書紀や郷土資料、歴史家の考察などを合体させた【吉備の桃太郎伝説 〜 温羅 vs 彦五十狭芹彦命】を書きます。みなさんの記憶にある普通の桃太郎とは全く違うよ!
リュカ補足は青字にします。

チョーーー長い文章になるけど、興味のある人はお付き合いくださいマセ。時間のあるときにでも読んで貰えれば。なお、これはあくまでいろんな説あるなかの 1 つですよ。

では、はじまりはじまりー。

***

むかしむかし。
垂仁天皇の時代。(だいたい3世紀)百済から王子が戦いに破れて吉備に渡来してきました。彼と彼の連れてきた技術者集団(7割が鍛錬師と言われる)を吉備の人たちは受け入れました。王子はそのお礼に最新の製鉄技術や造船、製塩技術を人々に伝授しました。王子の名前は温羅(うら)。

王子は新山(にいやま)に山城の造営に取りかかります。朝鮮式の古代山城に倣って標高400メートルの山頂に城を築きました。(旅行翌日に訪れた鬼ノ城。サービスで写真を載せちゃおう)

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この地域は現在は総社と呼ばれてますが、古名は「阿曾(あそ)」と言います。九州の「阿蘇」と同じで「明るいところ」という意味です。
九州の阿蘇は噴火で赤々としているのでその名前が生まれましたが、岡山の「阿曾」は野外で製鉄をおこなうため、昼夜赤々と天を焦がしているので、この地名になったと思われます。

温羅は阿曾の首長になりました。

当時の吉備は南山裾まで吉備穴海が入り込み、瀬戸内海航路の中継地点として都に上がる船が航行していました。温羅が来たことで吉備の国はますます繁栄し、温羅は「吉備津彦命」(吉備の港の立派な男の神)と呼ばれるようになりました。

さてさて、そんな吉備の鉄に目を付けたのが大和国です。
じつは吉備国には、大井という一族も居ました。(もちろん他にもいろいろな一族は居る)もしかしたら大井族は阿曾(=温羅)族の活躍を面白く思ってなかったのかもしれません。(そして、もしかしたらそれを利用して大和国は巧く付け入ったのかもしれないね。大井族の娘を彦五十狭芹彦命は妻にしてます)

大和国の大義名分は以下の通り!

「新山(にいやま)に居を構えた温羅は船を略奪して貢ぎ物を奪い、婦女子を略奪し、地元の人々を怖がらせているので退治をしよう!」

そして都から派遣されたのが「四道(しどう)将軍」の一人、彦五十狭芹彦命です。
( ※ 四道将軍 = 大和王権が全国を支配するために任命した、4人の占領軍総司令官のこと)

彦五十狭芹彦命(以下、面倒なのでイサセリ彦と書きます)は吉備の中山に陣を敷き、そして温羅との戦いが始まりました。

イサセリ彦が放った矢は、温羅が放った矢と空中でかちあい、海に落ちてしまいます。(その場所は矢喰宮として残っている)
そこでイサセリ彦は同時に2本の矢を放ちました。1本は温羅の放った矢とかちあいましたが、もう1本の矢が温羅の左目を射貫きました。(製鉄では片目を痛めやすいという象徴と思われる)

温羅はたまらず雉に姿を変えて逃げました。するとイサセリ彦は鷹に変身して追いかけます。
温羅は今度は鯉に化けて川に潜りましたが、イサセリ彦は鵜になって鯉を食い上げました。(鯉喰神社がある)とうとう温羅は降参して、自ら呼ばれていた「吉備津彦命」という名前をイサセリ彦に献上しました。(つまりは、吉備の港の立派な男の神という称号の剥奪だね)

イサセリ彦は以後、吉備津彦命と名乗るようになったのです。

温羅の首は刎ねられ、地中に埋められました。
ところが、この首が大声を上げて唸り続けます。イサセリ彦はお供の犬に首を食べさせガイコツにしましたが、それでも唸り続けます。大きな竈の下に埋めても 13 年も唸り続けたそうです。

困り果てていたある夜、イサセリ彦(もう吉備津彦です)の夢に温羅が現れてこう言いました。

「私の妻、阿曽媛に御竈殿の火を炊かせよ。
釜は幸福が訪れるなら豊かに鳴りひびき、
わざわいが訪れるなら、荒々しく鳴るだろう。
ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん」

そのお告げ通りにすると唸り声はおさまり、平和が訪れました。
以後は釜が鳴り響く神事として扱われるようになったそうです。

(唸り続けたのは温羅族の残党が戦っているということだと思われます。イサセリ彦の部下だった犬飼健たちとの戦いが 13 年続いたということ。この戦を終結させるため、温羅と関わりの深かった阿曾の女性を吉備津神社で面倒を見るという契約が結ばれ、今でもこの神事に仕えている女性を阿曾女と言って、代々この阿曾の郷の娘がご奉仕してるとのこと)

***

以上が、桃太郎のお話:裏歴史バージョンです。
まだ、温羅やイサセリ彦が何故化ける必要があったのか分からないし、夢のお告げに出てきた「四民」がどの民を指すのかが謎なんだけどね。

こうして吉備は大和の手に落ち、鉄を奪われ力を奪われ、土地を分割されて歴史の表舞台からは姿を消していくのでした。鬼ノ城のことも記紀には一切記されず、長く沈黙していたのよね。
鬼ノ城のことなんかが初めて記録されるのは室町時代だそうです。

今では、発掘調査も進んで吉備独特の土器なんかが出土して、大和に影響を与えたのは吉備だったと歴史が変わりました。
鬼ノ城も発掘や復元作業は続けられてます。

御竈殿をあとにして、さらに神社境内の端っこまできました。

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古い古い狛犬さんが居ましたよ。
多分これは石の狛犬かな。

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一番端っこに、本宮社がありました。
地図を見ると「旧社務所」があったので、遥か昔はこっちも賑わっていたのかもしれないね。

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本宮社に祀られている面々を見ると、平安時代末期の今様に歌われた名前があります。

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「一品聖霊 (いっぽんしょうりょう) 吉備津宮、新宮、本宮、内の宮、隼人崎、北や南の神客人 (かみまろうど) 、艮御崎(うしとらみさき)は恐ろしや」

後白河法皇がまとめた『梁塵秘抄』に出てきた怨霊の名前がずらりです。
「北や南の神客人」は北随神門と南随神門に居るけど、他はここに居るのね。諸々調べると徐々にここに合祀されていったみたい。静かに手を合わせてきました。

境内の柵の向こうに吉備の中山への道が続いてます。

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この先をずっと行くと吉備津神社公式サイトに書かれている「御陵」に辿り着くんだろうな。御陵は神社に直接確認したら、吉備津彦命の墓と言われる中山茶臼山古墳だという回答を貰いました。

電池が切れかかっているスマホ。そんな状態でこの山の中を入っていくのは危険だよね。
行くのは無理だなあ。。。さて、このあとどうしたもんだろう。

廻廊を戻り、境内を出るまでいろいろ考えました。

つづく。


***
今回紹介したお話は、あくまで、桃太郎伝説に関するものってことで書きました。
本当は温羅がやってきたと言われる時代と、鬼ノ城が造営された時代には隔たりがあります。(鬼ノ城の記事で書くつもり)なので温羅2世、温羅3世って感じで温羅一族複数人の物語かもしれません。

イサセリ彦に関しても、記紀で年代を調べると鬼退治をした年齢が127歳になっちゃうそうな。こちらもまた違う人物がいるんだと思われます。

吉備津神社でまさかのトラブル [岡山]

吉備津神社参拝中。この廻廊の美しさにうっとり^^

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この廻廊は地面を掘削しないで、自然の地形に沿って立っているんだって。
だから廻廊はまっすぐ平らじゃなく、美しいカーブを描いてるんだねえ。

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緩やかに下りながら、最初の社(やしろ)「一童社」に到着したときにそれは起こったのだ。

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一童社は菅原道真と天鈿女神(アメノウズメ)を祀っているんだって。
アメノウズメと猿田彦は一緒に居ないんだね〜なんて思いながら参拝して、そろそろスマホを充電しなくちゃと思ったのだ。

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この旅行の時はまだ古い iPhone を持っていたので、フル充電しても 1.5 時間で電池はヤバイ状態になります。だから今回の旅ではモバイルバッテリーを 2 個持ってきたもんね^^

スマホを見ると電池はもう 30% を切ってる。
モバイルバッテリーからケーブルを繋ぐと……

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え?(汗)
うそでしょ(滝汗)

いやいや、慌てるな。このメッセージが出てきたことは過去に何度もある!
まずは他のケーブルに交換してみよう。替えのケーブルを出して挿してみて……やっぱり同じ警告画面。。。

それじゃ、もう1つのモバイルバッテリーで試してみよう!
炎天下の中、若干焦りつつ別のモバイルバッテリーで同じ事を繰り返してみるも、警告画面が出るだけで充電出来ない。

本体に液体が入るわけないのよ。だってこんなに良い天気。
……天気が良すぎて、私の汗が偶然入ったとか?(滝汗)

家でこの警告画面が出たときは、スマホをしばらく放置しておいてるの。そしたら元に戻ってる。
でも此処は旅先。まして一人旅。スマホの充電が出来なくて電池が切れたら終わりだ(焦)

こうなったら今は緊急時ってことで、無理矢理充電だー!
警告画面の「緊急時につき無視」を思いきって選んでみたよ。でもね、2〜3 分充電はされたけど、そのあとは充電されなくなりました orz...

(すでに新しい iPhone は注文していて、この iPhone は下取りに出す予定。水濡れ原因で下取り額が下がったらどうしよう。いやいや、それ以前に新しい iPhone にデータ移行が出来ないんじゃないか? と、脳内ではかなり焦っていた)

スマホがまだ生きてるうちに相方クンに連絡しておかねば! と思って LINE を送るとすぐに反応してくれて助かったよ。

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最終的には 16 時に JR 岡山駅中央改札で待ち合わせ!ということだけは決めて、連絡を控えることにしました。時々スマホの GPS で居場所はチェックしてくれるらしい。少し安心ww

吉備津神社に居る間は電池節約のため、機内モードにしておきます。
ここから先の写真は iPad で。持っている iPad はセルラーモデルじゃないので、こういうときはカメラとしてしか役に立たないね ^^;

少なくとも境内には人が居る。なんとかなるよと思いながら神社参拝を続けるのです!

吉備国の地主神を祀るという「岩山宮」へも参拝。この辺りは中山古墳という古墳なんだって。だから上りの階段なのね。境内に古墳があるなんて、やっぱりすごい。

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石段を上っていると……蚊が凄い^^;
ううう、、ごめんなさい!これ以上は無理ですっ
蚊に負けたよー!

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岩山宮に参拝するには虫の居ない時期が良さそうだね。それか持ち運びできる蚊取り器持参?
神様ごめんなさい。辿り着けません (>人<) 階段の途中で手を合わせました。

階段脇。古墳らしき、こんもりしてるところに目を凝らすと、真ん中辺に祠があるな。

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岩山宮に祀られているのは、建日方別(たけひかたわけ)という神様。大きな岩をご神体にしているんだって。吉備津五所明神に数えられるそうな。

【吉備津五所明神】
正宮 主神・大吉備津彦命
本宮 吉備津彦の父、孝霊天皇
新宮 吉備武彦命(吉備真備などを生んだ「吉備臣の祖」の父)
内宮 吉備津彦命の妃、百田弓矢日売命
岩山宮 地主神・建日方別

昨日の記事に書いた、梁塵秘抄の『一品聖霊吉備津宮』の歌に出てくる「隼人崎」がこの岩山宮のことではないか? という考えもあるようです。が、実際にその場に辿り着けなかったので、私はなんとも言えない orz...

「隼人」は朝廷にまつろわない者たちのことを言うけど、九州の隼人族の意味合いが私の中では強いな。もっとこのへんも勉強しないとなぁ〜。



次回の記事はリュカ流『桃太郎伝説』を書きます。
ちょーーーー文章だらけなので、気が向いたら読んでね(笑)

吉備津神社は比翼入母屋造 [岡山]

一品聖霊 (いっぽんしょうりょう) 吉備津宮、新宮、本宮、内の宮、隼人崎、北や南の神客人 (かみまろうど)、艮御崎(うしとらみさき)は恐ろしや

これは後白河法皇が流行歌を集めた『梁塵秘抄』のなかある今様。
NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見てる人は、西田敏行サンが演じた後白河法皇の顔が浮かぶかしら?
平安時代に、まさに君臨していた上皇です。今様(現代流行歌)をこよなく愛した人物。

『梁塵秘抄』に出てくるこの今様。吉備津神社は大和に対する深い怨みを抱いた恐ろしい怨霊が祀っていると、当時の人々は歌ってたのですよ。
一品っていうのは吉備津神社が大和朝廷から一品の位を貰ったということ。吉備津神社はいろいろあって、神階が第一位の位になってるのだ。(理由は長くなるので割愛w)
聖霊は精霊で浮かばれない霊のこと。

そんな怨霊を祀る吉備津神社。現在見ることが出来る本殿・拝殿(国宝)は室町時代応永32年(1425年)に再建されたもの。比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり) と呼ばれる建築様式で、この吉備津神社にしかない様式なのだ。そんなわけで「吉備津造」とも言われるよ。

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ベンチに座って、しばし本殿・拝殿を眺めます。
「比翼」っていうのは二羽の鳥が互いにその翼を並べることだよねえ。此処にはふたりの吉備津彦が祀られているんだろうか。どうなんだろう……

梁塵秘抄がまとめられた平安時代末期には怨霊が祀られてると歌われていた吉備津神社も、今じゃ御祭神は吉備の鬼を倒した大和の英雄(?)吉備津彦命ってことになり、よく分からなくなりました。
拝殿で初めましてのご挨拶をしたあと、なんとなく立ち去りがたく、「あなたは何者ですか」って心の中で尋ねちゃいました。

いま、こうやってブログを書いていてふと思った。
もしかしたらこの問いかけをしたからこのあとのことが起こったのかな〜って(笑)

本当はこのあと、宮内庁管轄の吉備津彦命の墓と言われている中山茶臼山古墳まで行くつもりだったの。でも其処には行けなくなり、違う場所に辿り着いたということは、この質問に対するヒントだったのか?なんてww
「おまえが行くのは中山茶臼山古墳じゃねーよ」なんて言われたのかしら(笑)

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そんなことが起こるとは、このときの私はまだ思ってもいないので、話を先に進めます。

本殿内部の平面図は公式サイトにも載っていて公開されているので拝借。そして2005年に内部公開があった際に参加した人の記事と写真をもとに、本殿に配されている神社を追加してみた。

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薄赤く色をつけた内陣に「吉備津彦命」が祀られてます。
そして薄黄色の中陣に、西笏御崎・東笏御崎が祀られていて、外陣の四隅にそれぞれ乾(いぬい)・坤(ひつじさる)・巽(たつみ)・艮(うしとら)御崎が祀られてるのだ。

ここまでがっつりガードされる内陣の神。すごい意味深よねえ。
この吉備津神社は日本最大級の床面積。出雲大社も大きいけど、その2倍に相当するんだって。

これだけ立派な神社で、大抵は一緒に祀られることの多い日本の最高神アマテラスは一切出てこないってところも、吉備の意地みたいな感じで好きかも。配祀には吉備津彦命のお姉さんだと言われる倭迹迹日百襲姫命(私はモモソヒメと略して呼んでますw)は居るけどネ。箸墓古墳に眠っていると思われている皇女。この辺の繋がりも謎。

さて。本殿のことを考えるのはこのくらいにして、境内の散策を始めますか!
なんと言ってもこの神社は長さ 398m にも及ぶ廻廊が斜面を下るように続いてるのだ。

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どうですか! この景色!

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廻廊の脇に、あちこち参拝するところがあるので順番に参拝していきましょうかね。
戦いに負けた温羅の首が埋まっているという御竈殿の場所も行かないと。

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神事をお願いした人だけしか入れないので、私は中を見ることは出来ないけどね ^^
若い人たちが御神託をうかがうために申込みをしてたよ〜。
(予約は不要。鳴釜神事は約1時間くらいかかるようですよ)


次回の記事で、トラブル発生!?


吉備の中山みちを行く [岡山]

岡山、吉備王国探訪(?)の旅、続きです。
備前の吉備津彦神社をあとにして、次に目指すのは備中の吉備津神社。

旅日記のときは出番の少ないあおくんの顔を載せておこうね^^

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郵便配達のおじちゃんに教えて貰った道を進んでいきます。

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道のかたわらには水田が広がっていました。
地元の北海道は水田じゃなくて畑の土地。東京でも水田は見かけないので、私にとってはすごく新鮮な景色なのよ。

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しばらくすると民家は消え、山道に入っていきました。吉備の中山に足を踏み入れたかな。この一本道を進んでいけば、吉備津神社に到着するはず。
途中、吉備津彦神社の元宮があると思われる場所に来ました。磐座(いわくら)があるんだそうな。

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吉備津彦神社の元宮と言っても、ここの磐座は吉備津彦命では無いはず。
なぜなら吉備津彦神社は、これから訪れる吉備津神社から神霊を分けてもらったから。吉備国が天武天皇によって備前・備中・備後・美作に分割されたときに、それぞれの国に吉備津彦命を祀ったから。

磐座は神社が建つ以前から其処にあったわけなので、其処に居る神は吉備津彦以外の筈。
公式サイトに書かれている「人間本来の自然崇拝を元となし」「日本民族の根幹精神たる自然との調和―自然界に育み育まれる地球本来の神様」が坐すものと思われます。

磐座がある方を見ると……
鬱蒼としてます。入れる気は全くしません(笑)
こんにちはー!とだけ、心の中で呼びかけてみましたw

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でもね、この鬱蒼とした森の反対側には、写真は撮らなかったけど朽ちたラブホテルがありました。こんな神聖な場所なのに……なんだか寂しい気分になってしまったよ。

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気を取り直して進むぞー!
吉備の中山についての案内板を発見。道は間違えていないと分かって安心^^

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上から見るとこんな形をしているんだねえ。
「中山」の由来は、吉備国の中心にあったからなんだって。この中山には中山茶臼山古墳(吉備津彦のお墓と考えられている)の他にもいくつもの古墳があるの。力を持った権力者が居たことの証。この看板にも『大和の国に対抗しうる大きな力を持った吉備の国』って書かれていました。

さらに進んでいくと、また看板を発見!
吉備津神社までは 0.2km だって。もうすぐだ!

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吉備津神社で参拝したあとは、この看板にも書かれている 1.5km 先の『岡山県古代吉備文化財センター』と、2.2km 先の『吉備の中山(御陵)』にも足を伸ばしてみたいと思っていたの。
(トラブル発生前だから、そう思っていたw)

てくてく歩いてると、道がだんだん開けてきました。
お、事前調査でちょっと立ち寄ってみたいと思っていた場所が見えてきたよ。その場所は『鼻ぐり塚』って言います。

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横穴式古墳の前に、大正14年に創設された牛魂供養の場所なの。
昔は農村で飼われて田畑の耕作労役として頑張った牛。そして最後は人に食べられてしまう牛。
此処は死後残された牛の鼻輪を形見として集めて浄祭する場所なんだって。牛肉好きだからさ、手を合わせておこうかなって思ってたんですよ ^m^

円墳に鼻輪を積んでいるらしいんだけど、そこに行くためには護摩木料100円を納めて下さいとのこと。寺務所と思われる場所に行って「すみませーーーーん」と声を掛けたんだけど、誰も出ない(笑)
2〜3 回声を掛けたんだけど、やっぱり誰も出ないので諦めました。こんな感じの塚があるようです。現在では 700 万を超える鼻輪が納められてるとのこと。

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さあ、いよいよ吉備津神社へ!
石柱に書かれた「官幣中社 吉備津神社」の文字。

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第29代内閣総理大臣、犬養毅の文字です。

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桃太郎のお話に出てくるお供の犬。
当然それは本当は犬じゃなくて人間なわけなんだけど、それが犬養毅のご先祖さん(犬飼健命)というのはわりと有名な話。

このすぐ近くには矢置石がありました。温羅と吉備津彦(このときはまだ彦五十狭芹彦命って名前)が戦ったとき、吉備津彦が矢を置いていたと言われている大きな石だよ。

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さあ、この階段をのぼって北随神門をくぐれば吉備津神社です。
けっこう歩いて足は疲れてるけど頑張るぞ!

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ちなみに境内図はこんな感じです。

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つづく。


備前一宮、吉備津彦神社 [岡山]

ブログは昨日の続きです。
吉備津彦神社の第一駐車場には桃太郎の像が立ってます ^m^
家を出てから此処に来るまでトイレに行ってなかったので、駐車場にあるお手洗いを借りたときにパチリ(笑)

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てくてくと参道に戻ってきました。境内に入る前にあるのが環状列石です。
古代の祭祀場。仏教伝来前は神社には建物は無かったからね。こんなふうに石が並べられたりして祈りの場になっていたんだよね。吉備の中山から神様が下りたときに鎮座される里宮と考えられてます。

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環状列石のある島には渡ることが出来ないようになっていたけど、こういうのが残ってることからも、すごく古くから神聖な場所だったということが分かるわ。
いよいよ境内に入ります。随神門の前で一礼。

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初めまして〜!

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門をくぐると目の前には拝殿がありました。
「岡山に来るのは初めてです。今日は吉備津彦サマのことをいろいろ考えるために来ました。これからよろしくお願いします」とご挨拶。

挨拶も済んだので、いろいろ探検させてもらうよ〜。
拝殿を横側からパチリ。

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ふむふむ。拝殿、祭文殿、渡殿、本殿と一直線なのが分かる。
そして渡殿と本殿は柵の向こう側。参拝者は入れないようになってます。

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境内図を見ると分かるかな? 3番と2番の間には柵が設けられていて中に入れません。

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そして5〜8番。この空間の四隅をかためるように小さな神社が建てられているのだ。

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本殿に祀られている「大吉備津日子命」を見守っているのか、それとも見張っているのか?
ちなみに四隅の神社名と神様は以下の通り。

5番:楽御崎(らくおんざき)神社 / 祭神 楽々与里彦命(ささよりひこのみこと)
6番:楽御崎(らくおんざき)神社 / 祭神 楽々森彦命(ささもりひこのみこと)
7番:尺御崎(しゃくおんさき)神社 / 祭神 夜目麻呂命(やめまろのみこと)
8番:尺御崎(しゃくおんさき)神社 / 祭神 夜目山主命(やめやまぬしのみこと)

楽々(ささ)っていうのは製鉄を表す言葉。楽々(ささ)= 砂鉄の意味。
おそらく夜目も製鉄炉の火を昼も夜も見続けることに関係してるんじゃないのかなーと思ったわ。
御崎(おんさき or みさき)は怨霊を鎮魂する神社に使われる名前。吉備津彦を祀る神社にはこの名前が多く使われてるよ。
岡山では御崎を祀る神社は 30 社を越えるそうな。吉備津彦が怨霊って思われてるってことは、岡山で信仰されているのは朝廷との戦に負けた吉備津彦?

本殿に居るあなたは誰ですか??
もともと吉備国を治めていた吉備津彦?(温羅)
それとも大和から攻め入った吉備津彦?(彦五十狭芹彦命)
それとも……違う「吉備津彦」が居る?

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はっきりとは分からないまま境内を散策です。
この石段の上には子安神社があって、そこから末社がずらーっと続いてました。そして虫も多かった(笑)
ムヒは持参してたけど、虫除けスプレーを持ってこなかったのは失敗!
この日は蒸し暑くて汗だらだら。蚊が寄ってくるよ〜!(蚊に好かれます)

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ずらりと並ぶ 7 つの末社。温羅と彦五十狭芹彦命の戦いに関する神社もいろいろありました。そのうちこの戦いの様子も紹介します。

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温羅の和魂(にぎみたま)を祀った温羅神社もありました。

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公式サイトには、「童話『桃太郎』では吉備津彦命と戦った温羅は鬼とされていますが、吉備の国に様々な文化をもたらし「吉備の冠者」の名を吉備津彦命(この場合は彦五十狭芹彦命のこと)に献上したとされる温羅命の和やかな御魂をお祀りしています」と書かれてます。

そうなのだ。温羅はだいたい3世紀くらいに吉備国に渡来して、吉備国の人に最新の製鉄技術を伝え、国を豊かにしたと吉備の人には語り継がれているのよ。(飛鳥時代〜平安時代は文字を書ける人は限られていたけど、室町時代くらいになると、語り継がれた話が書かれるようになるみたい)

でも、じつは温羅以前に製鉄技術を持ってこの地に来た一団がいるんだけど、それをこの旅日記で書くかはまだ謎。今回の旅は行ったところが限られてるので、絡めるのが難しそうなら書かずにスルーする予定w



さて。お次は備中国一宮の吉備津神社へ行きますか。
此処から歩いて行けるはずなんだけど、どうやって行くのかな。ムヒを塗りながら地図を見てると、郵便配達の人がバイクで来たので聞いてみた!^^

「配達エリア外だからなー」と言いながらも、スマホの地図を一緒に見てくれて、「吉備の中山みち」に通じる道を教えて貰いました。

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「どのくらいかかるか分からないけど、一本道だから」と言うことなので歩いてみるぞ〜!

※ このスクショを撮った時間と、吉備津神社に到着して写真を撮った時間で調べると 30 分弱歩いたようです。


岡山旅行スタート:吉備国のプロローグ [岡山]

「旅行記が始まるらしいニャ−」

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今回旅をした岡山県。昔は吉備の国がありました。
吉備国は、現在の岡山県全域と広島県の東部を含めた巨大な王国だったの。飛鳥時代、天武天皇によって吉備国は備前・備中・備後・美作(みまさか)に分割させられて力を奪われちゃったんだけどね。

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ホモサピエンスはアフリカで誕生したので、すでに島国になっている古代に於いてはどうやっても最先端の技術は朝鮮半島を経由してやってくる。稲作や製鉄技術も朝鮮半島を経由してまずは北部九州に伝わる。ここに巨大勢力が出来るのは自然のなりゆき。

出雲も日本海側で大陸とは直に交易が出来るし、砂鉄が採れた場所。
そして吉備国は瀬戸内海を牛耳る場所。砂鉄も採れ、稲作に適した場所。航行技術に長けた民族が交易をしてたのだ。それに比べると大和は鉄に関しては不利な場所だったのよね。なので是が非でも鉄を持つ国を自分のものにしたかったのだ。

大陸からの技術や鉄を大和が手に入れるためには、瀬戸内海に君臨している吉備国をまずは味方に引き入れないとね。そんなわけで、弥生〜古墳時代初期の頃は吉備と大和はわりと友好関係だったのよ。吉備で持っている製鉄技術や祭祀を取り入れて、大和の土台は出来上がっていったみたい。
このへんのことは大和朝廷が編纂した日本書紀には書かれてないけど、発掘調査でそういうことが分かってきたのだ。

吉備の技術者たちが大和に行って、そこでいろいろ教えたりしてたようです。今でこそ前方後円墳って言うと仁徳天皇陵の大仙古墳!ってイメージだけど、前方後円墳は吉備国で造られていた形。それを大和が取り入れて、そしてトップに立ったときに全国に広めていったのよね。

じゅうぶんに力を付けた大和は吉備を裏切る。
岡山出身の人が書いた本を読むと「王権の協力者である吉備国を攻略、恩を仇で返した卑劣な事実を隠蔽した」と怒りに満ちた書き方をしてました^^;

大和が吉備に攻め入ったときに登場するのが吉備津彦命です。鬼退治の桃太郎のモデルと言われてる人物。
本当の名前は彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのミコト)って言います。第7代孝霊天皇の皇子だよ。日本書紀なんかで書かれてる内容は、吉備国の鬼が民衆を苦しめるので、民が朝廷に討伐をしてほしいと願いでたってことになってます。

鬼の名前は温羅(うら)。別名「吉備冠者」「吉備津彦命」で、元々はこっちが吉備津彦命だったんだよね。吉備津とは本来「吉備の港」という意味。彦は男の美称。命は神様。吉備の港の雄々しい益荒男(ますらお:立派な男子の意味)の神という意味。民衆に嫌われていた訳がない。
でも戦いに負けて名前を献上したために、彦五十狭芹彦命は吉備津彦命になって、温羅は鬼にされちゃったの。

旅行一日目は、そんな吉備津彦命が祀られている神社を巡るのだ。
祀られているのは、果たしてどっちの吉備津彦命なのか。温羅なのか、彦五十狭芹彦命なのか。

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朝 6 時の新幹線で岡山を目指します。乗車時間は約 3 時間。でも、いろいろ調べた内容を読み返したりしてたので、長くは感じなかったよ。

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これから行くのは吉備津彦神社と吉備津神社。吉備の中山っていう山を挟んで 2 社あるの。これは、吉備国が備前・備中・備後・美作に分けられちゃったので、それぞれの国が吉備津彦命を祀ったからなのだ。なので今回は行かなかったけど、備後にも吉備津神社はあって、美作には御崎神社(吉備津彦の怨霊を祀る)があるよ。

岡山に到着!
JR桃太郎線に乗って、まずは備前国一宮、吉備津彦神社を目指すのだ。

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備前一宮駅に到着。
のどかな場所だなあ^^

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背後の山が「吉備の中山」だね。あの山には中山茶臼山古墳もあって、吉備津彦の御陵があると言われてるの。でも宮内庁管轄なので中に入ることは出来ません。

吉備津彦神社は駅からすぐのところにありました。

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さすがです。備前焼の狛犬サン^^

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境内図はこんな感じ。

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ここの境内は、夏至の太陽が鳥居の真正面の方角から昇るように設計されてます。
拝殿、祭文殿、渡殿、本殿と一直線になるように造られているの。(下の地図で4番から1番)

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公式サイトにも書いてあるんだけど、背後の吉備の中山に巨大な天津磐座(神を祭る石)と磐境(神域を示す列石)があって、山全体が神の山として崇敬されてきたんだって。
なので、もともとは縄文の頃から神聖な場所として崇められていたと思われます。そこに吉備津彦命が祀られるようになったんだね。

プロローグがめっちゃ長くなりました^^;
これからもこんな調子かな。興味のある人は明日以降も読んで下さいマセ(笑)


*** おまけ ***

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鬼ノ城・東門跡のポケGOジム。ポケモンを配置して 8 日目(笑)
ここは鬼ノ城でもかなり外れにある場所で、人なんか来ないから配置したポケモンは帰ってこないだろうって思ってるんだけど、ポケモンが 1 匹増えてました。奇特な人が東門跡まで辿り着いたんだねえ。
悪いけど帰さないよ!というわけで、木の実をあげてハートを満タンにしておいた ^m^
居座り続けよう!ww