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九州旅行:佐賀 吉野ヶ里歴史公園散策 [佐賀]

吉野ヶ里歴史公園駅で下車。
駅にあった観光案内所に入ると、200円で荷物を預かってくれるというので、スーツケースは預けてしまいました。そしてレンタサイクルがなんと無料!!
(ただし、5台くらいしか無かったので要注意です^^)

吉野ヶ里歴史公園までの道を聞いて、自転車で快適に走ります^^
途中、田圃の道で・・・これはカワセミ?

カワセミちゃん

いろんな人のブログで見る鳥だぞ・・・これはカワセミに違いない!(笑)
わおー、初めて見ちゃった~(^▽^) カワイイね

かわいいです


とても綺麗な白鷺も居ましたが、写真には撮らず吉野ヶ里歴史公園を目指します。
駐輪場についたら・・・えーっと、他に誰もいないんですけど。。。

がらーん

駐車場を見ても、車はまばら・・・「従業員の車なんじゃん?」「大丈夫?吉野ヶ里公園、潰れない?」と不安がよぎります^^;

寒いのでコートの下に、さらにトレッキング用のダウンベストを着てから入口へ。
9:00 のOPEN と同時に入ったにしても、人が居な~~い!!
みんなー、もっと歴史に興味を持とうよぉぉぉぉ(笑)

閑散としています

入園料は大人で400円。安すぎ!(笑)
ちゃんと運営していけるのか不安になる価格ですよ・・・スタッフの皆さんは元気に「おはよーございます!」と言ってくれて、ちょっと明るい気分になれましたw

吉野ヶ里遺跡。
1986年、この遺跡が報道されたときの衝撃は今でも覚えてます。
    史学の道に進もうと、やっと自覚しはじめていたころだったし。
ほんとに邪馬台国が見つかったか?なんて思っちゃったものね^^

わくわく

この公園内の建物などは、発掘調査によって分かった遺構をもとに建てられてます。
なので、このあたりには柵があって、こんなふうに堀を作って、実際に外敵の侵入を防いでいたりしたのでしょうね。(厳密に言うと、遺構を守るため少し違う配置で再現されてるのですが)

お堀よ~~

弥生時代というと稲作。私が学生だった時代、教科書で習ったこと。
でもこの吉野ヶ里遺跡に関しては、稲作をおこなった形跡はないみたいです。この遺跡内ではなく、違う場所で行われていたのでしょうね。

そして当時習った歴史では、大きくカテゴリ分けをすると、縄文時代は狩猟、弥生時代は稲作。
(今は、東北地方の縄文時代の遺跡から稲作をしたと思われる遺物も発見されはじめてますがw)

どっちかというと稲作の時代のほうが平和?なんて思ってしまいますが、実際は違います。
縄文時代で戦争の痕跡がわかる遺跡は、今のところ発見されてません。

稲作をおこなって食物がたくさん採れるようになり、人口が爆発的に増え、それに伴う土地の確保、貧富差。こうしたことで争いがおこります。人類は稲作を手に入れたことによって、戦いの歴史を作り上げたのでした。
敷地内の資料館には、有名な首のない遺体のレプリカも展示されていましたヨ。

       これです~
       写真:教育用画像素材集より

まずは環濠集落ゾーン。南内郭という場所へ向かいます。
吉野ヶ里の支配者層が生活をしていた場所と考えられているんだそうな。

DSCF2397.jpg

高床式の見張り台。
ここから敵の侵入がないかどうかチェックしていたのですね~。ということは、弥生時代に、吉野ヶ里遺跡と同レベルの力をもった勢力が日本国内にあったということ!
決して吉野ヶ里遺跡が特別なわけではなく、本当は発見されていない巨大勢力を持った遺跡もあったに違いないのです。

DSCF2401.jpg

吉野ヶ里遺跡が特別だったのは、工業団地を建てるために短期間で、しかも広い面積で大規模な発掘が行われたこと。
これによって巨大な遺跡が見つかっちゃったのですよ。
これがもし道路工事のように小さな範囲での発掘だったら・・・吉野ヶ里遺跡はこんなに大きな遺跡だったなんて分からなかったかもしれません。

だから、もしかしたら大発見に至らぬまま、掘り返され、調査され、戻され道路になった大きな遺跡があったのかもしれないのですよぉ~と、スタッフのおじさんが話してましたが、私も同感です。

DSCF2403.jpg

工業団地の建設はもう決まっていたうえに、起工式も終わり、調査が終われば大部分が埋められて永遠に消える運命だった吉野ヶ里遺跡。
危うし!吉野ヶ里遺跡!!

そんななか、奈良国立文化財研究所の佐原氏が吉野ヶ里遺跡を訪れ、
「2,000年前の首なしの人骨、傷付いた骨。環濠集落。まさに魏志倭人伝に書かれた "倭国乱れる" の時代を見せてくれるじゃないですか!」と邪馬台国との関連を匂わせる発言をしてくれたので、朝日新聞と NHK を皮きりに、マスコミは大盛り上がり!
そして国民にも考古学熱がわき起こり、めでたく遺跡は守られることになったのです ^▽^)b

まあ、実際は邪馬台国が台頭してきた時期、吉野ヶ里はすでに衰退期を迎えていて、この遺跡は邪馬台国ではないということが分かったのですけどね。

でもそんなことよりも、この、「ムラ」よりも「都市」を思わせるような吉野ヶ里遺跡の発見によって、弥生時代の見方は大きく変わったのです。
こんなにも高い技術を持った時代だったんだということが分かった、とってもとってもすごい遺跡なんですよ^^

やぐらからの景色です

こちら ↓ の低い建物が住居。竪穴式住居です。

可愛いよね

この集落を行き来していた人たち、どんな日常を送っていたんだろう~~なんて、思いを馳せちゃいます。
見張りの櫓。私たちが上れるものは階段が設置されていましたが、実際は梯子を使っていただろうと考えられています。

見上げる空は今ときっと同じ

次回の記事では、竪穴式住居がどんなふうになってるかをご紹介しますね♪
あとは、祭場の様子も!弥生時代ですからね。仏像は出てきませんよwww

上からみおろした

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