九州旅行:佐賀 吉野ヶ里歴史公園散策その2 [佐賀]
吉野ヶ里の支配者層が生活をしていた場所と考えられている、南内郭にある竪穴住居です。
こちらは、軍事や土木工事を取り仕切る「大人(だいじん)」の妻の家と想定されて造られています。妻は複数居たと考えられているしネ^^
入口から数段の階段をおりたところが床になるので、天井は思った以上に高く感じました。
こちらの大人(だいじん)の家には鎧や楯が。
こういう防具も発掘されたのかしら? 模様は想像だと思われますが・・・そのへんは詳しくは分からないです。スタッフのお姉さんに聞けばよかったな。
こちら ↓ は、「王」の家です。見た目は他の家とさほど変わりはないのですが、室内が広めでした。
王様発見!(笑)
ぷぷぷ。やっぱり弥生顔だねーww
シンプルですが、一泊くらいならこういうお部屋に泊まってみたいかも^^
虫の居ない涼しい季節限定で(笑)
こちらは食事を作る煮炊き屋です。ここで作られた食事が、大人(だいじん)や王の家へ運ばれたんだそうな。
そして養蚕の家もありました。
絹織物は、この時代大事なもの!
じつは魏志倭人伝には、三国時代すでに倭国で養蚕が行われていたことが記されています。倭国側から送られた絹の名前が記されていて、倭国が当時、絹の産出国だったことが分かっているのです。(中国側からは優美な絹を輸入してたようですが)
そして、弥生時代全体で見ると、絹製品の出土は北部九州に限られていて、本州・四国・九州中部以南では皆無。この時代の西日本は、やはり九州北部からいろいろ発展していったのね。
(東日本はまた別の文化があるので・・・w)
さて、南内郭をあとにして、次は北内郭を見学!
こちらはまた厳重に門が・・・
ひときわ大きな高床式の建物がありました。
通常、高床式の建物は長方形なのですが、これは正方形。そして正確に東西南北を合わせて建てられているので、主祭殿だったろうと考えられています。
その主祭殿の周りにも櫓があるのですが、その櫓は先ほどの南内郭にあったものとは違い、見晴らしが悪いんだそうな。これじゃ敵が来ても分からないぞ?
・・・というわけで、別な意味があって建てられたのだろうと考えられ、それが冬至&夏至、春分&秋分の太陽の位置に合わせて建てられていることが分かったそうな。
天体観測としての役割も持っていたことでしょう。
やはりここは祭りの儀式が行われた場所だったのね(^▽^)
主祭殿のなかは、こんな感じに人形が配置されていました。
指導者たちが重要な事柄を話し合ったり、最高司祭者が祖先の霊を祈り捧げる儀式などが行われていただろうと考えられています。
巫女(最高司祭者)が祈りを捧げている扉の向こう、そこは北極星があるんだそうな。
そして反対側には雲仙。
この敷地内で、丁寧に説明をしてくれたおじさん。
このおじさんの話がとても面白かったです(^^)
私もこういうところで働いたら、熱く語るのだろうか?ww
次の記事は、弥生時代の御墓がたくさん出てきます^^
こちらは、軍事や土木工事を取り仕切る「大人(だいじん)」の妻の家と想定されて造られています。妻は複数居たと考えられているしネ^^
入口から数段の階段をおりたところが床になるので、天井は思った以上に高く感じました。
こちらの大人(だいじん)の家には鎧や楯が。
こういう防具も発掘されたのかしら? 模様は想像だと思われますが・・・そのへんは詳しくは分からないです。スタッフのお姉さんに聞けばよかったな。
こちら ↓ は、「王」の家です。見た目は他の家とさほど変わりはないのですが、室内が広めでした。
王様発見!(笑)
ぷぷぷ。やっぱり弥生顔だねーww
シンプルですが、一泊くらいならこういうお部屋に泊まってみたいかも^^
虫の居ない涼しい季節限定で(笑)
こちらは食事を作る煮炊き屋です。ここで作られた食事が、大人(だいじん)や王の家へ運ばれたんだそうな。
そして養蚕の家もありました。
絹織物は、この時代大事なもの!
じつは魏志倭人伝には、三国時代すでに倭国で養蚕が行われていたことが記されています。倭国側から送られた絹の名前が記されていて、倭国が当時、絹の産出国だったことが分かっているのです。(中国側からは優美な絹を輸入してたようですが)
そして、弥生時代全体で見ると、絹製品の出土は北部九州に限られていて、本州・四国・九州中部以南では皆無。この時代の西日本は、やはり九州北部からいろいろ発展していったのね。
(東日本はまた別の文化があるので・・・w)
さて、南内郭をあとにして、次は北内郭を見学!
こちらはまた厳重に門が・・・
ひときわ大きな高床式の建物がありました。
通常、高床式の建物は長方形なのですが、これは正方形。そして正確に東西南北を合わせて建てられているので、主祭殿だったろうと考えられています。
その主祭殿の周りにも櫓があるのですが、その櫓は先ほどの南内郭にあったものとは違い、見晴らしが悪いんだそうな。これじゃ敵が来ても分からないぞ?
・・・というわけで、別な意味があって建てられたのだろうと考えられ、それが冬至&夏至、春分&秋分の太陽の位置に合わせて建てられていることが分かったそうな。
天体観測としての役割も持っていたことでしょう。
やはりここは祭りの儀式が行われた場所だったのね(^▽^)
主祭殿のなかは、こんな感じに人形が配置されていました。
指導者たちが重要な事柄を話し合ったり、最高司祭者が祖先の霊を祈り捧げる儀式などが行われていただろうと考えられています。
巫女(最高司祭者)が祈りを捧げている扉の向こう、そこは北極星があるんだそうな。
そして反対側には雲仙。
この敷地内で、丁寧に説明をしてくれたおじさん。
このおじさんの話がとても面白かったです(^^)
私もこういうところで働いたら、熱く語るのだろうか?ww
次の記事は、弥生時代の御墓がたくさん出てきます^^
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