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諏訪大社の本宮です [長野]

諏訪ドライブ。諏訪大社の上社本宮に来ました。

明治維新前は、こんなに広い敷地だったようです。神仏分離令によって取り壊されたお寺関係が赤色の部分なのだ。現在は右側のわずかな敷地を残すのみなのですが、それでもじゅうぶん広かったので、お寺もあった頃は相当広かったんだなーって実感です。

かなしいねえ

東の参道から入ります。この橋は御柱進入路にもなっているんだとか。

すごいねえ

さっそく私たちも敷地内にお邪魔します。
こちらの本宮も、前宮と同じく御祭神はタケミナカタと、その妃であるヤサカトメノ神になっています。

おじゃまします

鳥居をくぐってすぐに見える布橋門。
ここには本宮二の御柱がありました。

ここからスタート!

布橋と呼ばれる渡り廊下のようなものを通って参拝所へ行きますよ。

てくてく

布橋からは絵馬堂や摂末社の遙拝所を見ることが出来ます。
最初に行った前宮と比べると、神社らしい感じがするよね。前宮はどことなく縄文色が強かったようにも感じます。

ふむふむ

橋を渡ると目に入ってきた本宮一の御柱。

御柱

そして参拝所がありました。こちらにもあるのは拝殿だけで、本殿はありません。
奥に広がる木立が神域で、実はこの拝殿の向かって右に神体山があります。以前はちゃんと神体山のほうを向くように拝殿があったようなのですが、いつしか90度方角が変わったそうな。

なぜ?

もともとは前宮だけだったけど、何らかの理由でこの本宮が造営されました。そしてそのあと、朝廷の主導の下、春宮と秋宮が造られたのです。

まだ朝早かったので、宝物殿も授与所も開いてません。いったん別の場所を見学してから、ふたたび本宮に戻ってきて、宝物殿を見ました。いやー、やっぱり他の神社とはチョット毛色の違うものが展示されておりますよ(笑)

そのなかの一つ。コチラを授与所で受けて参りました。
鹿食免&鹿食箸です。

じゃじゃーん

いかにも狩猟をしていた土地だという感じでしょ^^
狩猟を忌み嫌う時代になっても、お諏訪さまからこの神符を授かった人は、鹿肉を食べても許されたのです。

ありがたい

私も肉を食べるからね。こちらの神符とお箸があればもう大丈夫です。
肉は生きていく上で必要なものだって思うもん。命に感謝して、これからもいただきますよ。

コロル2世をパチリしてる所も撮られつつ、本宮をあとにします。

メイキングシーン

本宮周辺に信玄公墓碑があるというので、探したのですが見つからなかったわ。

あれれー

タケミナカタは軍神として多くの武将に崇められていたのです。出雲の国譲りで負けて諏訪に逃げてきたと古事記では描かれているのに、軍神というのはチョット不思議。もともとはそんな疑問から、いろいろ調べていったのでした。

「タケミナカタ」とカタカナで書いていたのには理由があって、古事記では建御名方神と書かれてるけど、他の文献では南方刀美神などの記載があります。南方から来たのだってことが表されているようです。

この人物、出雲で領土を持っていたけど、事代主命に領土を取られて出雲を追放されたようです。ちなみに、事代主命は古事記ではタケミナカタと兄弟にされているんだよ。国譲りのときアマテラスから派遣された神に抵抗せず従い、海に消えた神様として描かれます。

出雲を追放され、諏訪にやってきたタケミナカタは、砂鉄を使った製鉄技術を持っていたんだそうな。そしてもともと諏訪に居た洩矢一族は、褐鉄鉱を使用した原始的な製鉄技術だったので、タケミナカタ一族に権力を奪われたみたい。
( 洩矢一族はタケミナカタと同盟を結んで、諏訪湖東岸と霧ヶ峰一帯を支配していた武居大物主一族に迫ったという説もある )

製鉄の技術があれば農具も武器もより良いものが作れるもんね。そんなことで軍神ともなっていったのかなーなんて思いました。騎馬の技術もあったようです。

このあとは諏訪湖を眺めつつ、下社の春宮に行ったんだけど、長くなっちゃったから次回の記事にします。

※ ブログに書いた話は、いろいろある説のうちの一つです m(_ _)m
そして、スピリチュアルな面よりも、神話などに書かれるに至った歴史に興味があるので、神様に対して失礼なことを書いてるかもしれません。ゴメンナサイ!


あお

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