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稲荷山:三ノ峰から一ノ峰までの参拝 [京都]

「たまには、うみの顔を見せるにゃ〜」

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うみの写真を1枚だけ載せて、伏見稲荷大社の続きなのです(笑)

休憩後に目指したのは三ノ峰・下社です。
この辺になると、私はゼーゼーはーはー言って写真を撮る余裕は無し。相方くんもさすがにちょっと疲れてきたのか、写真はあまり撮ってません。

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なので、いきなり三ノ峰下社に到着!(笑)

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三ノ峰は祠の下に竪穴式石室が残ると言われています。
秦氏が祀った一ノ峰から三ノ峰には古墳があるのだそう。そしてこの竪穴式石室からは、明治26年(1893)に二神二獣鏡と捩文鏡が出土しているみたいです。

三ノ峰下社に祀られているのは白菊大神で、今は稲荷大社の主祭神になっているウカノミタマ(宇迦之御魂神)のこと。

もしも古墳の石室に眠っていた人物が居たとして、その人物が秦氏の関係者だとするなら、その古墳の上にウカノミタマは祀らない気がする。朝廷によって鉄の神から穀物の神に変えられたということなのかなーと思っちゃいました。
でも何故白菊大神という名前なのかは謎だ。石室から出てきたのは鏡だけだったようなので、石棺は無かったのかな。調査がどんな状況だったのかは想像するしかない。

(国立国会図書館のデータベースで検索してみたんだけど、該当する書物・論文が見つからなかった。明治時代のものは難しい??)

さて、次の社に向かいます!

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少し歩いて見えてきたのは間ノ峰、荷田社。
荷田氏は秦氏の後裔みたい。この荷田氏に伝わる『稲荷大明神流記』によると、稲荷神の名前は「龍頭太」と言うんだそうな。山神であり、水神、龍神、雷神でもあったらしいよ。そして空海が修行中に出会ったという話もあるのだ。

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ここの荷田社の鳥居は、全国でも2社しかない珍しい形の鳥居です。
奴彌(ぬね)鳥居って言うんだって。もう一つは、同じく京都にある錦天満宮の日之出稲荷神社とのこと。参拝したことのない神社です。

奴彌鳥居の特徴は、額束に合掌形の破風扠首束(はふさすづか)をはめ込んだ形となっているところらしいよ。額束部分に八の字の屋根っぽいのが付いてるのね。

鳥居部分の名称は下図↓を参照してくださいマセ。

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荷田社の石造の鳥居は1917年(大正6年)に建てられたものらしく、わざわざ奴彌鳥居にするのだからちゃんと意味があるんだろうけど、そもそも奴彌鳥居そのものの云われを書いたものが見つけられませんでした。私が持っている神社本庁の本を見ても無かったんだよねえ。ただ、山王鳥居のような感じなら、山にまつわる神様がいることを表してるんだろうか?(山王鳥居は山王信仰の象徴)

さて。お次は二ノ峰を目指すよ!
上りの石段はキツイよぉぉぉ!(笑)

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さらにゼーゼーと息を切らして到着したのが二ノ峰・中社です。
公式サイトを見ても、そっけないくらい「ここは青木大神と崇められています。」という一文で紹介が終わっている中社^^;

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ちなみに二ノ峰からはニ神ニ獣鏡と変形四獣鏡が見つかっているんだって。他の資料によると青木大神は本殿では佐田彦大神として祀られてる猿田彦のこと。馴染みのある神様の名前に変えられちゃってるねぇ(笑)

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青木大神かぁ〜。青々とした針葉樹の木?
そういえば公式サイトに「お稲荷さんのご神木は杉」って書いてあったな。伏見稲荷大社の「初午大祭」でも杉が関係しているわ。杉はスサノオさんにも絡んでくるんだよね。日本書紀に「ひげを抜いて撒いたら杉が成った」っていう箇所がある。青木大神=スサノオさんですか?w

お次はいよいよ山頂にある一ノ峰・上社を目指します。
石段がまじできつくて、足が前に進まない。最後は相方くんが背中を押して上ってくれましたよ(笑)

あああ!見えたぁ〜! 一ノ峰・上社!!

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嬉しい。山頂って書いてあるっ

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ここからは自力で頑張って上って参拝します。

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一ノ峰にも古墳はあったんだけど、応仁の乱でほぼ全壊しちゃったようです。応仁の乱の凄まじさを実感しちゃいました。ここに祀られているのは末広大神という名前。この塚が建てられる前から信仰されてきた神様と公式サイトに書いてあるけど……うーん、謎の神様だなあ。

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応仁の乱で戦場になった稲荷社。古墳が破壊され、おそらくあったであろう縁起に関する資料も焼失してしまったのが悔やまれるね。戦争はホンッとやめてほしい!
末広大神にご挨拶をして「これからもいろいろ調べさせて下さい」って言ってきましたw



此処に神を祀った秦伊侶具(いろぐ)。餅を的に見立てて射られた餅は白鳥と化して山の頂上に飛び去る。それを追っていくと、白鳥が降り立ったところに稲が生じていた。そこに伊侶具は三柱の神を祀り、それが稲荷大社の始まりと書かれている山城国風土記。

じつは山陰地方にも似た伝承があるそうな。金屋子神(鍛冶屋に信仰される神で一般には女神と言われる)が白鷺に乗って飛来したっていうもの。各地で金屋子神は鍛冶の指導をおこなったとされてるんだって。もしも伊侶具(いろぐ)の餅=白鳥=金屋子神なら、生じたのは稲じゃなくて鉄だよね。山の中に稲って不自然。

末広大神は本殿で祀られている大宮能売大神(アマテラスの侍女)と言うことになってるので女神。末広大神=金屋子神でも良いわけかぁ。。。

そんな妄想をして一ノ峰・上社をあとにします。

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さあ、このあとはまだまだある社(やしろ)を参拝していくぞ!

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四ツ辻で休憩 [京都]

伏見稲荷大社登拝。
熊鷹社を出発して、三ツ辻に出て、そこから三徳社を目指します。

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三徳社は衣食住を司るとも言われてるし、三つの願いを叶えてくれるとも言われてるんだって。
私は本殿で「いろいろ探らせてもらいます」と宣言してるので、願い事はしません。ひたすら「初めましてっ!登拝に来ました!」って挨拶しまくっているだけですww

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ふと見ると京都の町並み。

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ここから四ツ辻を目指すのですが……石段が思った以上に足腰につらい(笑)
四ツ辻までの石段約400段。清少納言も『枕草子』で此処の場所のことを書いているんだって。朝一番でお山を目指したけど途中で歩けなくなったのが、ちょうどこの辺りみたいです。

清少納言のような文才はないけど、清少納言よりは体力はあるはず!w
ひーひー言いながら石段を上っていったよ。

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でもさすがに限界。暑くて心臓もバコバコ言ってるー!
四ツ辻に到着したとき「もうダメ。休憩する」と言ってしまったわ ^-^;
ここから山頂へのルートからちょっとだけ外れる「荒神峰田中社」までは頑張った。

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田中社の主祭神は田中大神、権太夫大神、または賀茂建角身尊(熊野の八咫烏とも言われる)とのこと。
出た!かもたけつのみのみこと!!
「賀茂」ですよ、「賀茂!」って言っても多分ぞわぞわする人は少ないと思うので割愛。賀茂氏のことも書くと永遠にブログが終わらないから^^;
今回は秦氏だけにしておく。

此処には神蹟(しんせき)がありました。神蹟とは、かつて社(やしろ)があったけど廃絶してしまった旧跡のことです。応仁の乱で稲荷山のあちこちにあった社はことごとく焼失したのよ。

さて、四ツ辻に戻ってきました!
休憩するー!!そうじゃないと死ぬーーー!

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『仁志むら亭』で相方くんはソフトクリーム。

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私は甘いものは無理。というわけでビタミンレモン^^

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ぷはー! 生き返るぅぅぅ!
酸っぱいもの最高!

さて、次の目的地は……いよいよ三ノ峰下社です。
三ノ峰、二ノ峰、山頂の一ノ峰を参拝してから、眼力社や大杉社などを回って帰るルートにしたのだ。

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石段はまだ続く。
頑張りますっ (>_<)

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伏見稲荷大社登拝:石段がきつい [京都]

今回、稲荷山登拝するにあたって、事前に伏見稲荷大社に電話をしてました。
コロナ禍でしょう。実際、奈良の三輪山は今現在登拝中止だもんね。
万一稲荷山に登れませんってことになったら予定がすべて狂うから。(晴れ女なので、雨で登れないかもという想定はしていない)

「23日に稲荷山の山頂まで参拝に行こうと思ってるのですが、入山できますか?」
「はい、大丈夫です(関西弁のイントネーション)
「今の季節、京都は暑いですよね?」
「蒸し暑い日が続いてますので、気をつけてお詣りください(関西弁&イントネーション)

おだやかな関西弁でしたが、関西弁を話せないので標準語で書きました ^m^
でもこれで稲荷山には行けることが分かったので一安心♪
こういう事前確認が大事なんですよ!藤村ちゃん!(どうでしょうファンしか分からない)

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千本鳥居、最初は緩やかに下っていきます。朝早いので、まだ人はそんなに多くないです。
ちなみに千本鳥居っていう名称で呼ばれてるけど、実際は一万基を超えてるらしいです。

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稲荷大社の沿革は公式サイトに詳しく書かれていて、神社側の考察も交えて興味深く読めます。
『山城国風土記』によると、山城地方に住み着き、富み栄えていた秦氏。その長である伊侶具(いろぐ)が、餅を的に見立てて弓を射るの。射られた餅は白鳥と化して山の頂上に飛び去ってしまった。それを追っていくと、白鳥が降り立ったところに稲が生じていたそうな。ここに三柱の神を祀ったのが稲荷大社の始まりとされてるとのこと。

なんだか良く分からない話よね。(解説は後日の記事でw)
秦氏は教科書にはあまり出てこないかもしれないけど、歴史上ではいろんなところに影響を与えている氏族。藤森神社創建の話に出てきた神功皇后。彼女が三韓征伐に出たのが、秦氏が渡来してくるきっかけにもなったとか。百済地方出身と思われます。
秦氏族の本拠地は右京の太秦。松尾大社を祀っている氏族。この分家にあたると思われる伊侶具(いろぐ)が稲荷神を奉ったようです。

そして秦氏は製鉄技術を持って日本に来た氏族なのだ。
さらに、稲荷山の一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰には古墳があったんだって。これが秦氏以前のものか、秦氏のものか、それは謎。でも古墳時代の年代を考えると秦氏の可能性が高そう。なら稲荷神は農耕の神以前に鉄の神ってことになるよねえ。農耕が発展したのは鉄具がいろいろ作られるようになってからだもの。

その後、記紀が書かれるようになった8世紀頃までには、農耕神としての存在の方が大きくなって、その後商売繁盛やら何やらでも信仰されるようになったんだね。
というわけで、今回の稲荷山は「鉄の神様・稲荷神」に挨拶をするのだ!という目的で登拝なのっ!

てくてく歩いていると「根上がりの松」という名前の松がありました。
商売をしてる人や証券会社に関係のある人たちには「値が上がるのを待つ」という縁起の良い松として信仰されてるそうな。

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それとは別に、松の根元をくぐったり木の肌を撫でると腰や膝の痛みが治るという言い伝えがあるんだって。最初は「値上がり」よりも、こっちのほうが先だったろうね。製鉄といえば「たたら製鉄」だもん。ジブリ映画の『もののけ姫』にも出てくるたたら製鉄。踏み鞴(ふいご)で足腰を痛めてしまった人たちからの信仰があったんじゃないかな。

さらに歩いていると、鳥居から出たところに小さな赤い社(やしろ)が見えるぞ。
行ってみよう!

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其処には「神道御徳社本部」と書かれた看板がありました。なんだかとっても怪しい雰囲気。
家に帰ってきてから調べてみたら、伏見稲荷大社とは別の宗教団体みたい。なんでそんなものが? って思ったら、明治時代に政府が土地を取り上げた(上知令)ことがあって、伏見稲荷大社もその対象になったの。でも政府は管理しきれなくて、その間に塚やら何やらが勝手に建てられたんだって。その後土地は伏見稲荷大社に返されたけど、既に作られた建造物を壊すわけにもいかず、今に至っているようです。

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写真中央の猫ちゃんに癒やされて、千本鳥居に戻りました。
さらに鳥居を進みます。そこは石段がずっと続く上り道。気温がどんどん上がっているのが分かります。じんわり汗が出てきて、マスクで呼吸もつらい。会話もしないのでマスクから鼻だけ出したわ ^^;

新池(こだま池)が見えてきました。ここは拍手を打ったときに響いたほうで人捜しをする池なんだとか。江戸時代に造られた農業用溜池なんだって。

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場所で言うとこのへん。稲荷山山頂までは、まだまだ先は長いよ。

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周りにはこんなふうにいろんな塚があって、多くの人に信仰されているんだなあ〜と眺めました。

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此処には熊鷹社があります。
もともとは稲荷山三ノ峰を遙拝する場所だったみたい。熊鷹社に関しての詳しいことは割愛。興味があったら調べてみてねww

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ココのしめ縄は稲穂なので要チェックですよ!
ぜぇぜぇ息を切らして下を向いていると見過ごしちゃうよ(笑)

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熊鷹社の正面にあった売店の自販機でお茶を買う。
ぐびぐび飲んでいると、息を切らして上ってきたお兄さんが売店の人に「山頂まであとどのくらいですかね」って聞いてます。

売店のお姉さん、「まだまだ 1/5 ってところですよ」と、しれっと答えてました。
うん。私は知っている。この先がまだまだ長いことを!
ちゃんと野帳に地図を貼ってきたから!(笑)

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石段の道ってつらいんだよね。。。でも今日は絶対山頂に行くって決めてるから頑張る。
私が息を切らしていても、体力バカの相方クンはまだ元気いっぱい。

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登拝はまだ始まったばかりなのです。。。

伏見稲荷大社へ [京都]

藤森神社をあとにして、伏見稲荷大社にやってきました。

全国に鎮座する稲荷社の総本宮!
天長4年(827年)淳和天皇の時代に「従五位下」の神階を贈られ、その後、朱雀天皇より最高位の「正一位」という神階を与えられたのが、天慶5年 (942年) です。

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なぜ、淳和天皇は今まで位階のなかった稲荷神に神階を与えたのか。
じつは稲荷神に祟られたからなのだ!(笑)

ここにも出てくる空海さんww
空海が東寺に五重塔を建てたとき、稲荷山から大量の木材を無断で調達しちゃったんです。そりゃ稲荷神も怒るよ!
五重塔建設を許した淳和天皇は病に臥せてしまい、原因を占うと稲荷神が祟ってると神託が出たのだ。慌てた淳和天皇は稲荷神に神階を授けて、怒りを鎮めてもらったの。

相方クンにこの話をすると「声をあげたもんの勝ちだね。今の世の中と変わらないな」って苦笑い。祟った稲荷神はその後、平将門や藤原純友が叛乱をおこしたときに朝廷が稲荷にすがったので願いを叶えてあげた。将門たちの調伏に協力して、最高位の「正一位」を得たというわけ。

今回、藤森神社・伏見稲荷大社・東寺を見て回ったのは、こんなふうにそれぞれが絡む場所だったからなのでした^^
藤森神社は伏見稲荷に土地を奪われ、そして伏見稲荷は東寺に木材を取られ祟るw
(一番の黒幕は空海さん!?(笑))

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さて。訪れた日は7月の本宮祭が開かれているときでした。
こういうときに来られることって滅多にないので嬉しいな。

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応仁元年(1467年)に起こった応仁の乱で消失してしまった社殿。
豊臣秀吉の時代に楼門などが造営され、社殿も修復。今見ることができる社殿などは明応8年(1499年)のものみたいだね。

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立派な社殿や鳥居は大勢の人の信仰があった証。それは間違いないよね。
外拝殿にはたくさんの絵が飾られていました。どうやら日本画家などが奉納した行灯画のようですわ。本宮祭のあいだ、こんな感じで展観されているみたい。

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境内のあちこちに狐さんが居ます。
お稲荷さんというと狐さんを浮かべるだろうけど、狐は神様じゃありませんよ。眷属ですから^^

稲穂を咥えた狐さん。シッポには宝珠らしきものが乗ってます。

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でも、稲荷の神様が本来は製鉄を意味するのなら、これは燃える炎を纏った玉鋼?

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伏見稲荷大社のホームページにもチラリとそれを匂わせるような記載があるの。能の謡曲「小鍛冶」のことが触れられてるのだ。それはこのあと登拝する場所の1つ、御劔社での記述。

謡曲「小鍛冶」がどんな内容なのか私は見たことがないんだけど、あらすじを検索してみると以下のような感じ。

一条天皇の命により、勅使の橘道成は、刀匠として名高い三條小鍛冶宗近(さんじょうのこかじむねちか)のもとを訪れ、剣を打つよう命じます。宗近は、自分と同様の力を持った相鎚を打つ者がいないために打ち切れないって言うの。でも道成は聞き入れない。困った宗近は氏神の稲荷明神に助けを求めて参詣したのね。そしたら稲荷明神の化身の少年が現れて、その少年に相鎚してもらって、無事に剣を鍛え上げることが出来た──という話。

平家が三種の神器を持って壇ノ浦で滅亡したとき。
安徳天皇は壇ノ浦の海に消え、剣だけは回収出来なかった。そのあと即位した後鳥羽上皇は三種の神器が揃わないまま即位。そんな後鳥羽上皇の刀が鍛えられたとき、稲荷山の土を採って用いられたという説が鍛冶屋の間では語り継がれて、稲荷信仰のもとにもなってるんだそうな。

京都はもともと刃物作りに適している場所なんだって。
出雲地方の砂鉄や玉鋼、伏見稲荷周辺の土(稲荷山・大阪層群中の粘土)、鳴滝の砥石、丹波の松炭、良質な水。それが容易に入手できる土地だったみたい。

穀物の神様だけではない側面がびしびし見えてます。
本殿でご挨拶。(人も多かったので写真は無し)
今日は稲荷山登拝に来ました! いろいろ探らせて(笑)もらいますってちゃんと宣言w

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本殿に向かって左側にある鳥居を目指します。
ここが私にとっては稲荷参拝の本当の入口。一礼して足を踏み入れます。

鳥居をくぐって正面には「玉山稲荷社」
宮中に祀られていたんだけど、京都から東京に遷都したので 1974年 (明治7) に戻ってきた社なんだそうな。

その右奥にあるのが奥宮。見た目は摂社っぽいんだけど摂社でも末社でもなく、稲荷大神を祀った別格の社。1499年の『明応遷宮記録』によると、当時は八間の回廊があったらしいんだけど、今は無いです。

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隣には末社の「白狐社」がありますよ。
稲荷大神の眷属を祀る唯一の社。狐の夫婦で、夫は小薄(おすすき)、妻は阿古町(あこまち)って言います。

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「これからお山してきます」とご挨拶して出発!
(お山する = 稲荷山に登り、これらの神蹟やお塚を巡拝すること)

いよいよ千本鳥居を通りながら、稲荷山山頂を目指します。
いろいろ調べたことをメモした測量野帳を手にして GO! ですよ。

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写真撮影がメインの人は、ここでたくさん写真を撮るんだろうけど、私の目的は違うのでどんどん進みます。相方クンが撮ってくれた写真を載せますね。

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伏見稲荷大社に参拝して祈りや願いが聞き届けられ、そして感謝の念で奉納される鳥居。
江戸時代に始まったものだそうです。この時代にはもう五穀豊穣だけでなく、商売繁盛などの神様として信仰されていたんだろうね。


***
長くなりました。
覚書 & 自分の頭を整理するために書いているので、これからもこんな記事が続きます。
読むのが面倒だったらスルーしてくださいね^^


もともと其処には藤尾社があった [京都]

今回の京都。一番の目的は稲荷山登拝。
ひょんなことから、本殿にはじつは隠された神様がいるのではないか? と思い、いろいろ調べているうちに藤森神社の存在を知りました。

裏歴史好きは、きっと「稲荷」が「稲成り」だけの意味ではないことを知っているので、隠された神が何者なのかなんとなくは想像がつくのだ。その想像はビンゴ!だったわけです。

現在の伏見稲荷大社の拝殿や本殿などの社殿がある場所。
もともとそこは藤尾社(現在の藤森神社)が建っていて、藤尾社の土地だったんだって。そして藤森神社の主祭神はスサノオさんです。なるほど、もともとこの地にはスサノオさんが鎮まっていたわけだ。

稲荷社に土地を貸した藤森神社。
「十年」という証文を空海の時代に「千年」に書き換えられてしまったので、現在もこの場所は稲荷社のものという俗説もあるらしいわ ^-^;



スサノオは古事記によれば、お父さんのイザナギさんに「海原を治めよ」と言われたんだけど、お母さんのイザナミさんがいる根之国(黄泉の国)に行きたいと言って、アマテラス姉さんが治める高天原に別れの挨拶に行くのだ。

その高天原でいろいろあって、スサノオに辟易したアマテラスは天岩戸に隠れちゃって世界は真っ暗。
他の神様があの手この手でアマテラスを引っ張り出して世界に光は戻るのだ。そしてスサノオは手足の爪を引き抜かれて高天原を追い出されるのね。

地上におりてきたスサノオは出雲で泣いている老夫婦と娘に出会うの。
娘がヤマタノオロチの餌食になるというので、スサノオはヤマタノオロチを退治。胴体を切り刻んだとき、スサノオの剣は刃がこぼれたので、不思議に思って胴体のなかを見ると、鋭利な太刀が現れたのね。これがのちの草薙剣(三種の神器)になるわけだ。

この逸話から、もともとスサノオが持っていたのは銅剣。そしてその銅剣の刃を折ったヤマタノオロチの太刀は鉄剣だって言われて、ヤマタノオロチは製鉄の象徴。スサノオは鉄を制した人物(一族)を暗示していると考えられるようになるの。

それと同時に、もともとは海原を治めるという役目を与えられていたので、海人族の渡来系とも考えられているのだ。渡来してくる人々は当時の最新技術を日本に持ち込むけど、病疫も持ち込む。なので、スサノオは疫病神としての一面もあって、そんなスサノオを鎮めるために祇園祭がおこなわれるという次第。



さて。
伏見稲荷大社のある場所が、もともとは藤森神社の土地だったことを知ったからには、藤森神社にご挨拶をしておかねば!と思ったのです。

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スサノオさんに、ちゃんとご挨拶をして「今から稲荷山に行ってきます!」って伝えないとね^^
スサノオさんが絡んでるからには、「稲荷」は「稲成り」ではなく、「鋳成り」だもんね。そう考えると、なぜ稲荷山に「眼力社」や「薬力社」や「御劔社」があるかも分かるのだ。それは稲荷山登拝記事で書きます。

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参道はとっても気持ち良い。
蝉が鳴いているんだけど、ミンミンゼミじゃない。関東ではあまり聴かない鳴き声です。こっちはクマゼミが主流なのかな?

あ、狛犬さん!
ふふふ。さすがスサノオさんを祀る神社だけあって、出雲系の狛犬。

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シッポぴん!!!!です^^
あおくん並みに見事な垂直シッポ!

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藤森神社の創建はとても古くて、社伝によると神功皇后摂政3年。
西暦だと203年頃らしいので、弥生時代後期。もはや神話の世界ですww

公式サイトによると、神功(じんぐう)皇后が三韓征伐から凱旋して、軍中の大旗を立てて、兵具を納め、塚を造り、神祀りされたのが起こりなんだそうな。勝運の神社と云われるのはこれがきっかけかな?

御祭神は素盞鳴命、別雷命、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰の七柱。
あとになって祀る神様はもっと増えてくるんだけどね。最初はこの七柱だったそうです。

現在、ココは勝運・学問と馬の神社になっているんだけど、学問は日本書紀の編者・舎人親王を祀ったからで、馬に関しては早良親王が征討将軍になったとき戦勝を祈願したからみたい。その出陣の日が5月5日で、現在の駆馬神事の元なんだって。菖蒲の節句発祥の地らしいよ。

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境内には、ご神水「不二の水」がいただける場所があって、地元の人がペットボトルに水を入れてました。きっと美味しい水なんだねえ。

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境内をいろいろ見ているうちに 9 時になったので宝物殿も見ていくよ!

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さすが、兵具を納め祀ったのが起こりの神社。
大鎧や刀、大筒など、戦いに因んだものが展示されていました。
鎧はなかなか立派だったよ。

さて、ではでは本日のメインイベント!
稲荷山登拝に向かいますか〜!


稲荷山への登拝が夢だった [京都]

2ヶ月前。花嫁さんになる人から京都で結婚式をすることになったと言われたとき、真っ先に浮かんだのは「祇園祭」でした。
7月の1ヶ月を費やして牛頭天王(スサノオさん)を祀る京都三大祭りの1つ。
この時期の京都は暑いし(笑)、縁がないと思ってたのでちょっと興奮ww

でもね、メインは親戚の結婚式!
相方クンのご両親は名古屋だから当然前泊するよね。そしたら京都で合流したら一緒に行動するだろうし……お義父さんは車椅子だから、祇園祭は諦めだなって思ったのです。

京都駅周辺の観光地を少しだけ楽しむ程度かなあ〜。
それならば! やってみたいことがあったのです!

いつも京都に来ると欲を出してあちこちの神社仏閣に行くから、なかなか出来なかったこと。それは伏見稲荷大社の稲荷山登拝^^
まじでガッツリ登拝するとなると、3時間はかかるもんね。朝一番の新幹線で京都に行って登拝すれば、名古屋の両親が来る頃には京都駅に戻っていられるんじゃないかな。
もし雨だったら登拝は諦めて東寺で仏像を楽しもう。そう思ったのでした^^



伏見稲荷大社を訪れたのは、まだブログを始める前のこと。
札幌の母と二人で京都&奈良の旅をして、京都に住む母の友人と合流。そのとき一緒に伏見稲荷大社を訪れたのが最初で最後。

当然のことながら(?)母と母の友人が居たので稲荷山登拝は出来ませんw
本殿に参拝して、その周りを少しうろうろした程度です。
なのでね、心残りだったの。

だって稲荷大社の本質はあくまでも稲荷山!
稲荷信仰の原点は稲荷山!
いつかちゃんと全部まわりたいなーって思っていたんだけど、ついつい他の神社仏閣巡りが優先されちゃってたのでした (^ω^;

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相方クンに「稲荷山にのぼる!」と宣言をして計画を立て始めます。
伏見稲荷大社のホームページをチェックして、どういうところをまわるのかも確認。
ご祭神は当然ながらウカノミタマの大神さん。本殿の中央にデデーーンと御座します^^

今までは確認してなかった稲荷山も今回はガッツリチェックですよ。
ふむふむ、一の峰、二の峰、三の峰があるのね。ここにそれぞれ神様が祀られてるわけだ。

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一の峰が稲荷山の最高峰(標高233メートル)。
ホームページを見ると『ここを末広大神と崇める信仰がありますが、これは親塚を建てた以前からつづく信仰らしく』と書いてある。
あれ?
ということは、ウカノミタマの大神さんじゃないんだ。稲荷山と言えば五穀豊穣の神、ウカノミタマだと思ったのに。本殿ではちゃんと中央に鎮座してるのに。

家にある本を引っ張り出して確認すると、確かにウカノミタマさんは三の峰に居る扱いになってる。
裏歴史ハンターのアンテナがビビビっと反応しましたよw

稲荷山では三の峰(下社)扱いのウカノミタマさんが、麓の本殿では主祭神になっている。
公式サイトにも、稲荷信仰の原点は稲荷山って書いてるんだから、それを踏まえると主祭神はウカノミタマじゃないことになるよね。こりゃ本殿には隠された神様が居るぞ。

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こうして稲荷信仰のもともとの神様探しが始まったのでした。
ダイエットと同時進行で、いろいろ本を読んで調べてました ^m^

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本殿に祀られている神さまは以下の通り。

・宇迦之御魂神(ウカノミタマ)
・佐田彦大神
・大宮能売大神
・田中大神
・四大神

上から3柱は平安初期から祀られていて、残りの神が明応8年から。
稲荷山はそれ以前から存在していたわけだから、平安初期以前に遡る必要があるわけね。

プロローグ記事が長くなりました。スミマセン。
明日からは訪れた場所の写真を載せつつ神様話になります。完全に趣味の世界に入るので、興味のある人はお付き合いください。

あ、そうだ。
名古屋の相方クンの両親は、前泊せずに結婚式当日に京都に来ることになったので、祇園祭もちょっとだけ見ることが出来たのです。お義父さんが車椅子なので、ホテルに泊まるのは大変だからという理由でした。

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今回はスマホでピっ!と新幹線に乗ったよ。めちゃめちゃ楽だねえ^^
京都駅。お久しぶりですっ!!
デカいスーツケースを持ったまま稲荷山には行けないので、ホテルグランヴィア京都に荷物は預けちゃいました。

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京都タワーも懐かしい^^
あそこのスカイラウンジで飲んだのはいつだ!? と、相方クンと思い出話をしながら、最初の目的地に向かいました。

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つづく。


経ヶ岬灯台は綺麗でした [京都]

丹後半島の旅、最終日の最後に向かったのは経ヶ岬です。

到着~

経ヶ岬は近畿地方の最北端にある岬。
相方君は山頂展望所に行く気満々だったようですが、わたしは灯台が見たいのだ!
それならどっちも行こうよという相方君。こんな階段を見ちゃったわたしは「灯台だけでいいよ」と、早くも弱気(笑)

ぎゃー

実際、この登りは辛かったです。日頃の運動不足 & この旅での筋肉痛が既に出ているわたしの足にはキツい!ww
0.4km だなんて絶対嘘だよとブーたれながら、そして途中立ち止まって休みながら、汗を拭き拭き・・・あああ、看板が見えた!

おおお

あ!可愛い白いのが見えた!(笑)

がんばるぞ

最後の力を振り絞って到着しました。経ヶ岬灯台。
日本三大灯台のひとつなんだって。あとの二つは何処だろう?

おおおお

この白も美しいね。
青空に映えるー!

こういうコントラストいいね

1898年(明治31年)12月25日に初点灯した灯台なんだって。灯台のレンズはフランス製で、レンズを回転させる装置は、パリ万国博覧会に展示されていたものを購入して、経ケ岬灯台に設置したとのことです。

すばらしい

白い灯台。いいねぇ。青空、そして海とのコントラストが良いんだよね^^
日本海もこの日はとても綺麗な色をしていました。積丹半島を思い出すよ♪

いいでしょ

こんな先端にあるんだよ。

地図

カメラのセルフタイマーを使って記念にパチリ。
そう言えば、毎度だけど今回も人物は殆ど撮ってなかったな(笑)

わっはっはw

頑張って上ってきた甲斐があって、素敵な景色を堪能できました。帰り道、ひーひー言いながら上ってくる人とすれ違います。まるで行きの自分を見ているよう。
「灯台への道は、まだきついですか?」と声をかけられ、「きついです。でもすごくすごく綺麗な景色が見られるので頑張ってください」と答えていきました(笑)

こうしてレンタカーでの旅は終了!
天橋立駅周辺まで戻ってきて、レンタカーを返却。京都行きの列車の時間まで、まずは腹ごしらえ!

どきどき

もう車を運転する必要のない相方君はアルコールを欲しております。
「ワインとお宿 千歳」という看板を見つけたので入ってみました。ランチタイムの時間からは少しズレていたんだけど、食事をすることが出来ました。

わいん

天橋立ワインをいただきながら、ランチのセットを食べました^^

豪華

お蕎麦もついていたので、お腹いっぱい。

ごちそうさま

のんびりと、天橋立を眺めながら旅を振り返りました^^

ぼやーん

天橋立が見られるのは、今回わたしたちが行った傘松公園の他にもう一カ所あります。天橋立ビューランドというところです。そっちからの景色も見てみようと思ってリフト乗り場に行ったのですが、めちゃめちゃ混雑してたので止めました。また機会があったら、そっちからの景色も見たいな^^

こうして旅はおしまい。
京都からは新幹線で東京へ。うみちゃん、ただいまー!

くねくねまん

くねくねコロコロして、出迎えてくれたうみと、駆け寄ってくるあおくん。

たたたー

ふたりとも、お留守番おつかれさま。ありがとうね^^
そして、長々と記事を読んでくれたみなさま、どうもありがとうございました。

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神明山古墳と日本海 [京都]

竹野神社や、古代の里資料館の近くにある神明山(しんめいやま)古墳。
せっかくなので上ってみることにしました。

いってきます

神明山古墳は、全長 180m を越える丹後地方では最大級の前方後円墳。今から約 1600 年前に、この地方を支配していた豪族の墓だよ。古墳には埴輪が並べられていて、碧玉製の容器などが出土してるんだそうな。

ここです

でもね、正直こうやって上ってしまうと、すでに緑に覆われていて小高い丘になってるのが古墳なのよね。出土品などは興味があるけど、古墳自体は「古墳に居るんだ!」という実感は湧きませんでした。上空から見たら感動するんだろうけどね^^

丘だよねえ

さあ、次の目的地である穴文殊堂へ向けて出発です。この日は、なんか町内放送が流れているなって思ったら、マラソン大会だったのかな?住民が数人街道に出て、ランナーに頑張れと声を掛けてました。

がんばれー

車は日本海沿いを走りますよー。こちらは屏風岩。
1500万年前に堆積した火山灰などの地層中に貫入したマグマが固まったものなんだとか。

言われてみれば屏風

ごつごつした地形が続きます。

見上げる

このあたりは丹後松島と呼ばれてるんだって。
あまり写真は撮らなかったけど、たしかに松島っぽい雰囲気を感じました^^

こんなかんじ

穴があいた奇岩が多いです。

ほうほう

小高いところからも海を満喫しましたよ。

素敵でしょ

穴文殊堂を目指していると、前方になんだか不思議な丸いものが見えてきました。
「そういえば最近レーダーをこの辺に設置したって話を聞いたことがある」と相方君。Google Map で見てみると、経ヶ岬分屯基地と書かれています。

わお

「基地の写真撮って大丈夫なのかな」「こんなに遠くからも見えちゃってるし大丈夫じゃない?」「検索したら画像出てるよ。きっと大丈夫」などと、わちゃわちゃ言い合って、結局画像出しますが・・・ダメだったらどうしよう^^;

どきどき

この基地のすぐ隣に穴文殊堂がありました。
正式名称は清涼山・九品寺。穴文殊というのは、海食崖に形成された高さ約 10m の海食洞で、元々は洞窟の奥に安置していた文殊菩薩を、現在の地に遷仏したことから、穴文殊と呼ばれてるんだそうな。

おじゃまします

自衛隊の基地があるので、穴文殊へ近付くことは出来ないみたいです。海から見るのがオススメらしいですよ。
稲荷神社もあったので、そちらにもご挨拶してまいりました。

こんにちは

さあ、この旅最後の目的地、経ヶ岬へ向けて出発!
次回ラストです。

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古代の里資料館にやってきました [京都]

ここは、京丹後市立「古代の里資料館

到着

この資料館は最初から知っていたわけではなく、宿でもらった観光マップに載っていて、俄然興味が湧いたので訪れました。屋外スペースでは、発掘成果を元に弥生時代の集落跡を復元しているみたいです。

いいね

丹後王国の成立から消滅、そして丹後国が誕生するまでの歴史が分かるように展示されているらしいです。楽しみ!

いってきますー

図録も買ってきて読んだので、その図録と旅行前に読んだ本に記載されていた内容をもとにして書いていきますね。

図録

館内に入ってすぐの場所に、丹後半島各地にある墳墓&古墳の地図があったのですが、その形を見ると、やっぱりのちの大和政権と同じような形のものが多くて、出雲系の四隅突出型墳丘墓はありませんでした。丹後は出雲とは対立してたのかなーって思いながら展示を見ていくと、やっぱりそうみたい。

地図

四隅突出型墳丘墓は弥生時代中期後半に、中国山地や出雲地方で多く作られた形なんだけど、この形は但馬・丹後・若狭を飛び越えて越(北陸地方)に伝わってるんだって。「出雲・越」の勢力と、「但馬・丹後・若狭」の勢力間で対立があったと考えられてるけど、詳しくは分かってないそうです。謎を解くヒントになるようなものが発掘されたら面白いのにね。

京都府下にある 9149 箇所の古墳のうち、 5074 箇所が丹後地方に集中してるんだそうな。そして 5 世紀末の遠處製鉄遺跡を含めて 48 カ所にもなる鉄生産に絡む古代遺跡が丹後にはあります。このあたりは、中級クラスの豪族の墓からもバンバン鉄製品が出てくるようで、発掘をしていったら楽しいだろうなーと思います。

記紀や神代の伝承も面白いけど、やっぱりなにか遺物が出てくると俄然面白くなるよね。でも発掘には多くの予算が必要なわけで・・・記紀に殆ど書かれてない丹後地方の発掘調査&研究は、あまり進んでいないのが現状のようです。頑張れ丹後!!!(笑)

縄文

縄文時代早期〜晩期の土器や石器が大量に含まれた包含層と古墳時代の石敷遺構の断面も展示されてました。縄文時代が始まる前の旧石器時代の遺跡は、今のところ京丹後市内では見つかってないそうです。

中国大陸や朝鮮半島から米作りの技術を持った多くの人たちが日本列島にやってきて、丹後半島に住んでいた縄文人もその技術を受け入れて、最初に米作りが始まった竹野(たかの)遺跡あたりに弥生の村が広がったそうな。

アクセサリー

弥生時代後期には山の斜面を階段状に削り出した方形台上墓が作られるようになって、そこからは鮮やかな青色のガラス玉が出土してます。写真では分かりづらいけど綺麗な青色なんだよ。弥生時代の人はこの色を好んだみたい^^

弥生時代の終わり、2 世紀後半の墳墓から、丹後の王が葬られた王墓が見つかり、この時期に丹後王国が成立したと考えられてるんだって。初期のヤマト政権は各地の地域国家が連合して作り上げた政権。(それは纒向遺跡から出土する各地から持ち寄られたであろう土器からも分かってるのだ)

丹後王国も初期のヤマト政権の成立に大きく関わってることは、記紀に記載されている、丹後の「姫」と天皇の婚姻記事から推察されると図録には書かれてました。

古墳時代の鏡も展示されてましたよ。

鏡

古墳群から出てきた鏡の年号が、三国時代の魏の「青龍三年」と書かれていて、これは西暦にすると235年。卑弥呼は 239 年に魏に朝貢して、翌年に銅鏡100枚をもらっているので、時期がほぼ一致する!
なので卑弥呼の鏡の1枚ではないかということで注目を集めたそうな。でも現在は、日本製ではないか?という議論も起こって、現在もまだ結論は出てないそうです。

丹後王国は、いちはやくヤマト政権下に組み込まれたことで、丹後一円を治めたような力のある豪族も 6 世紀に入ると存在しなくなったようです。そのかわり、ヤマト政権管轄の古代の製鉄コンビナートが、古墳時代後期には出来上がりました。ヤマト政権、がっつり鉄を手に入れたね!(笑)
記事の冒頭に書いた遠處製鉄遺跡は、ヤマト政権直営の製鉄工房と考えられてるそうですよ。

難しいハナシはこれにて終了。明日からの記事も、もうややこしいのは出てきませんからご安心を(笑)

********
屋外展示にも行ってみますよー。

どれどれ

大山遺跡。弥生時代後期、3世紀の堅穴住居の復元です。

ふーん

屋根のあたりは昔の神社様式を思い浮かべてしまうよ。
構造上こんなふうになるのか、それとも現代の私たちが勝手に想像して神社風の鰹木を乗せたのか気になる。資料館のお兄ちゃんに聞けば良かったなあ(笑)

おしえて

住居の中には弥生時代の家族が居りました^^

こんにちは

丹後王国、興味がますます湧きましたよ。
古代吉備王国と絡めてもっとお勉強したいわ^^

あおに言われた

※ パレオマニア = 古代妄想狂 (池澤夏樹の造語)

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竹野神社と巫女 [京都]

聖徳太子は、用明天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひと)の子供です。本来ならば天皇になれる身分にありながら、天皇になれなかった人物。

皇室&蘇我氏の系図を見ると・・・

どどん

画像では見づらいけど、穴穂部間人皇女のお母さんにあたる人物の血を引く者が、みんな死んでます。聖徳太子の血というよりも、小姉君(おあねのきみ)の血を引いた者が、病死したり自害したり、同じ蘇我氏の人間に暗殺されたりしてるのです。

ありゃま

この小姉君というのが何者なのか?
系図だけを見ると、蘇我稲目の子供ということになってます。じつはこの小姉君は、蘇我稲目の養女で、実際は丹後半島のまさにわたしが旅行してるあたりの土地の出身者で、物部の血筋の人間だった・・・という説を書いた本がなかなか面白かったので、覚書として記事に書いておこうと思ったのでした。

かなり突飛な話なんだけどねww
なので「ふーん」って感じで読んでくれればと思います。

やってきましたー

やってきたのは竹野神社。竹野と書いて「たかの」と読みます。ここはかぐや姫伝説があるところ。明日記事にする予定の「古代の里資料館」でも見てきたけど、此処、丹後半島は天皇の妃をよく送り出してます。丹後半島にあった丹後王国はかなり強大で、大和朝廷は統一するための融和策として、丹後出身の姫と結婚し、血縁関係を結ぶことで安定政権を保ったとも考えられています。

鳥居です

天皇になる皇子を産む女性のことを「皇女」と書くのですが、これは「ひめみこ」と読みます。「みこ」は御言。巫女。天皇の「詔(みことのり)」は、神に仕える巫女が神の言葉を宣託するのです。そしてこの竹野神社には、そんな巫女を養成するための宿舎があったそうな。そんなわけで、余談ですが卑弥呼も丹後出身のシャーマン(巫女)という説がありますが、卑弥呼丹後出身説の本はまだ読んでないので割愛。

うっそうとしてます

竹野神社のはじまりは、第9代開化天皇に嫁いだ「竹野媛」が晩年郷里に帰って「天照皇大神」を祀ったこととされます。(西暦だと紀元前のオハナシ
当然、御祭神は天照皇大神(アマテラス)・・・あれ?

狛犬がお尻をあげてるよ。じつは、こんなふうにお尻をあげてる狛犬がある神社は、出雲系の神様を祀った神社が多いのですよ。出雲式と呼ばれます。今にも飛びかかろうとしてる姿らしいのですが、猫と暮らしてると「シッポの付け根、ポンポンしてー!」と言ってるようにしか見えないw

狛犬・・・あれ?

なんでアマテラスさんを祀ってるのに出雲系なんだ?
そういえば、元伊勢籠神社にもお尻をあげた狛犬があったな・・・出雲系だと大国主命やスサノオさんだよ。あ、聖徳太子が建立した四天王寺にも牛頭さん(スサノオ)を祀ったところがあるぞ・・・じつは隠された神様がいる?なんて思って、帰ってきてから調べたら居るみたい。でもそれはまたどこかで機会があればまとめようかな。

出雲系

狛犬さんにご挨拶をしてから、いよいよ境内へ。竹野神社の巫女の話に戻ります。
竹野神社の御祭神は天照皇大神さんです。そして竹野媛は斎王(いつきのみこ)としての役割を持っていました。斎王とは天皇にかわってアマテラスさんの神意を受ける依り代のこと。その斎王になれるのは斎女で、巫女の中でも高級官僚の巫女なのです。そんな巫女を輩出する竹野神社出身のひとりが、聖徳太子の祖母である小姉君かも?というオハナシ。

拝殿

蘇我氏はそれまで物部氏に比べると決して位の高い豪族ではなかったのに、天皇と血縁関係を結び、力を付けられたのは竹野媛の血統を持つ娘を養女として迎え、天皇の妃に出来たからではないか?と、読んだ本には書いてありました。
その説の理由なども細かく書いてありましたが、ブログに書くと長くなるのでやめますね。

まぁ、そもそもなんでスーパーエリート巫女を輩出する血筋の者が蘇我氏と関係を結んだのかが分からなくて、そこが納得いかないんだけどね。

歴史を感じます

では、竹野媛の血統とはなんぞや?
竹野媛は丹波国大県主由碁理(ゆごり)の娘と由緒書にあります。この丹波国大県主というのは、元伊勢籠神社の関係者の話だと、海部氏のことなんだそうです。竹野媛は丹波国大県主の家系から出て、それは海部の祝部(ほうりべ と読みます。祭祀に従事した神職のひとつです)であり、聖徳太子の祖母は海部の祝部の娘だったというのです。

境内からみたところ

蘇我氏は、この血を利用し、そして同時に恐れました。
蘇我馬子にしてみたら、聖徳太子が天皇になったら海部の血を引き継ぐ者が天皇になってしまい、蘇我氏の血は入らない!
それで、天皇と血縁関係がしっかり出来たのち、聖徳太子の祖母である小姉君の血を持つ者を排除したのだというオハナシでした。ちなみに海部氏の分家が、物部氏や尾張氏なんだとか。

疑問を持つ箇所はいくつもあったけど、こういうオハナシも面白いなとは思いました。一世を風靡した蘇我氏も、中臣氏(のちの藤原氏)に滅ぼされ、中臣氏が中心となって作られた記紀には、極悪な蘇我氏として書かれるわけで、その時代時代の思惑などを妄想するのは楽しいわ(笑)

奥が深いです。丹後半島。
今後謎なのが、竹野媛となる女性は「熊野郡市場村」に生まれるらしく、現在、京都府に熊野郡というのは存在しないのですが、「熊野」ってところが気になるのだ。熊野ならスサノオさんが出てくるからねー。

というわけで、旅行記はもうすぐ終わるけど、わたしの丹後半島歴史調べは今後も続きそうです(笑)

あおくん

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いったいどんな本を読んだのさ!と気になった方はこちらをどうそ。
他の本も読んでるけど、とりあえずこの 1 冊が元ネタになっております(笑)

聖徳太子 四天王寺の暗号―痕跡・伝承・地名・由緒が語る歴史の真実

聖徳太子 四天王寺の暗号―痕跡・伝承・地名・由緒が語る歴史の真実

  • 作者: 中山 市朗
  • 出版社/メーカー: ハート出版
  • 発売日: 2013/03/01
  • メディア: 単行本


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